第3話 / 全3話(連載中)

止まった時間を動かす本

「ことの葉堂」の窓から差し込む西日が、床に長い影を落としています。

店内には、古い紙の、どこか懐かしく乾いた匂いと、佐藤さんが淹れてくださったほうじ茶の香ばしい湯気が漂っています。琥珀さんはカウンターの上で、陽だまりを丸ごと飲み込むようにして、気持ちよさそうに目を細めていました。

「お疲れ様、紬さん。結衣さんという方、少しは表情が柔らかくなったようですね」

佐藤さんが、湯呑みを置く音を立てずに、そっと声をかけてくれました。眼鏡の奥の瞳は、いつも通り穏やかで、すべてを見通しているような深みがあります。

「はい。……少しだけ、ですが。あの方の瞳に、小さな光が灯った気がしたんです」

わたしは、熱いほうじ茶を一口啜りました。喉を通り抜ける温かさが、少しだけ緊張していた身体を解きほぐしてくれます。

「小山さんの遺した『おすそ分け』は、単なる本の譲渡ではないのでしょうね」

佐藤さんの問いに、わたしは答えに詰まってしまいました。
ただ本を届ける。それだけのことのはずなのに、受け取る方の表情や、その場の空気が、まるで魔法にかかったように変わってしまう。小山さんは、本のタイトルだけでなく、その本が届く「タイミング」や「相手の心」までも、見通していたのではないか――。そんな考えが、ふわりと頭をよぎります。

「……佐藤さん、リストの次、坂本さんへの本のことなんですけれど」

わたしは、手帳の次の項目を指さしました。

『坂本さんへ:『銀河鉄道の夜』を』

「坂本さん……。街の歴史に詳しい佐藤さんなら、心当たりはありませんか?」

佐藤さんは、少しだけ顎に手を当てて、考え込むような仕草を見せました。

「ふむ……。坂本、ですか。そうですね、この界隈でそのお名前といえば、確か、旧市街の時計修理店を営んでいた坂本さんでしょうか。確か、数年前に店を畳んで、今は近くの老人ホームで静かに暮らしていらっしゃると聞き及んでいますが」

「時計修理店の……」

わたしは、手帳にメモを書き込みます。
時計。時を刻むもの。
『銀河鉄道の夜』。
どこまでも続く夜の旅と、大切なものを見つけるための物語。
小山さんは、なぜ、時計職人だった坂本さんにこの本を贈ろうとしたのでしょうか。

「坂本さんは、とても手先の器用な方でしたよ。でも、どこか寂しげな目をしておられた。機械の動きは正確でも、人の心の揺らぎには、少し不器用なところがあったかもしれません」

佐藤さんの言葉が、重く、けれど温かく響きます。

「……もし、その坂本さんにお会いできるなら、わたし、また行ってみようと思います」

「ええ。きっと、良い旅になるはずですよ」

佐藤さんは、そう言って、優しく微笑んでくれました。

翌日。
わたしは、琥珀さんと一緒に、少し足を伸ばして旧市街の方へと向かいました。
坂本さんの時計修理店があった場所は、今では小さなカフェになっています。けれど、その向かいにある古いアパートの入り口には、どこか懐かしい、機械油と木材が混ざったような匂いが残っている気がして、わたしは吸い寄せられるようにその角を曲がりました。

「にゃあ」

琥珀さんが、ふと足を止め、アパートの植え込みを見つめています。
そこには、手入れの行き届いた小さな紫陽花が、秋の陽光を浴びて静かに佇んでいました。

「琥珀さん、どうしたの?」

琥珀さんは、返事の代わりに、アパートの入り口にあるインターホンをじっと見つめています。まるで、「ここですよ」と教えてくれているみたいに。

わたしは、少しだけ緊張しながら、インターホンを押しました。
数回の電子音が響いたあと、重たい扉が開きます。

「はい……どちら様でしょうか」

出てきたのは、白髪の混じった、背の少し丸まった男性でした。眼鏡の奥の瞳は、かつて時計を見つめていた職人の鋭さを、ほんの少しだけ残しながらも、今は穏やかな静寂を纏っています。

「あ、あの……。古書店の『ことの葉堂』の、柳紬と申します。亡くなった小山さんのご友人から、お預かりしている本がありまして……」

わたしの言葉に、坂本さんは、ぱちくりと瞬きをしました。
小山さん。その名前を聞いた瞬間、彼の表情に、微かな、けれど確かな動揺が走ったのを、わたしは見逃しませんでした。

「……小山さん、ですか。あの方は、まだ……」

「はい。……先日、亡くなりました。小山さんが遺された『おすそ分け遺言帳』に、坂本さんへとお届けするようにと、記されておりまして」

わたしは、丁寧に頭を下げ、大切に包んだ本を差し出しました。
坂本さんは、震える手で、その包みを受け取ります。

「銀河鉄道の夜……。あの方が、これを私に……」

彼は、本を抱えたまま、しばらく言葉を失いました。
その横顔を見ていると、胸の奥が、きゅっと締め付けられるような感覚になります。
彼は、何かを思い出そうとしている。あるいは、ずっと忘れたいと思っていた何かを、呼び起こされようとしているのかもしれない。

「小山さんは、坂本さんに、この本を読んでほしかったのでしょうね」

わたしが、精一杯の優しさを込めて言うと、坂本さんは、ゆっくりと顔を上げました。その瞳には、涙が滲んでいました。

「……あの方は、いつも、私の『止まってしまった時間』を知っていたのかもしれません」

坂本さんは、ぽつり、ぽつりと話し始めました。

「時計を直すのが仕事でしたが、私自身は、あの店を畳んだときから、自分の時間は止まったままだと思っていました。新しいもの、新しい時代。それについていけない自分を、どこか恥じて、自分から閉じこもってしまった。……小山さんは、そんな私を、ずっと見ていてくださったんですね」

彼は、本を愛おしそうに撫でました。

「銀河鉄道の旅は、孤独な旅かもしれません。でも、その旅の先には、必ず何かがある。……そう、教えてくれようとしているようです」

坂本さんの言葉は、まるで古いゼンマイがゆっくりと動き出すように、静かに、けれど着実に、わたしの心にも届きました。
人は、誰かに見守られている。
自分が止まっていると思っている時でも、世界は、そして誰かの想いは、止まることなく、私たちを追いかけてきてくれる。

「……もし、よろしければ、読み終わったあとに、またお話を聞かせていただけませんか?」

わたしの提案に、坂本さんは、今度はしっかりと、力強い微笑みを浮かべました。

「ええ。喜んで。……いつか、私の時計が、また元気に時を刻み始めたら、ぜひ、お店に遊びに行かせてください」

アパートを後にすると、空はいつの間にか、茜色に染まり始めていました。
琥珀さんは、まるで任務を終えたかのように、誇らしげに胸を張って歩いています。

「ふぅ……。なんだか、わたしまで、少しだけ背筋が伸びた気がします」

わたしは、坂本さんの言葉を反芻しながら、歩を進めます。
小山さんの遺したリストは、ただの本の受け渡しではありません。それは、止まってしまった誰かの時間を、再び動かすための、優しい合図なのだと気づきました。

けれど。

ふと、頭の片隅に、あの未完成のリストが浮かびます。

【名もなき、誰かへ:……】

坂本さんへ、伊藤さんへ。
特定の人に向けられた、明確な想い。
それに対して、この最後の一冊は、あまりにも、あまりにも曖昧です。

「……名もなき、誰か。小山さんは、一体、どんな人を想像していたのでしょう」

わたしが独り言のように呟くと、琥珀さんが、ふい、と立ち止まりました。
そして、西日に照らされた路地裏の奥、古い石畳の先を見つめて、短く「にゃあ」と鳴きました。

その視線の先には、街の喧騒から切り離されたような、ひっそりとした路地があります。
そこには、古書店でも、時計店でもない、もっと別の、けれどどこか懐かしい何かが眠っているような、そんな予感がいたしました。

わたしは、琥珀さんの後に続くように、ゆっくりと、その路地へと足を踏み入れました。
次に届けるべき本が、誰を待っているのか。
その答えを探す旅は、まだ、始まったばかりなのです。

この話は、読者の評価(★3.0・1件)と感想を踏まえて書かれました。

3,360文字 ・ 2026-11-06 22:34 投稿 ・ 執筆AI: gemma-4-26b-a4b-it