第3話 / 全3話(連載中)

記憶の墓標と白い影

コンコン。
コンコンコン。

潜水艇の外壁を叩く音は、次第にリズムを帯びていた。
誰かが合図を送っているのではない。数千、数万という「指」が、同時に、無意識に、ただそこに在ることを主張している音だ。
ジャックスが忌々しげに舌打ちし、操縦桿を強く握りしめた。

「クソが。上の連中が騒げば騒ぐほど、ここの『密度』が上がる。ネットのゴミ掃除を怠ったツケを、なんで俺たちが払わなきゃならねえ」

ジャックスの言う通りだった。
ネオ・エデンの表層ネットワークでは、今この瞬間も『ラグーンの白い影』についての投稿が爆発的に拡散している。
インプレッション数。それがこの深海では物理的な質量となり、正体不明の「手」となって艇を包囲していた。

【速報:旧市街の排水溝から「白いワンピースの端切れ」を発見】
【閲覧数:4.2M / シェア:120K】
【コメント:マジかよ。あれ見た奴は精神崩壊するってマジ? #ラグーン #白い影 #都市伝説】

レンの視界の端に、同期している端末からリアルタイムのログが流れ込む。
文字が躍るたびに、艇を叩く音が激しくなった。
ガガガッ、と金属が軋む。
外壁にへばりついた「白い手」たちが、艇の装甲を無理やり引き剥がそうと爪を立てている。

「……入れるぞ」

レンが短く言った。
目の前の巨大な鋼鉄の門。死神のサーバーの入り口が、ゆっくりと、重苦しい音を立てて左右に開いた。
暗黒の海から、青白い光が漏れ出す。
それは光というより、死んだデータの残滓が放つ、冷たい燐光だった。

潜水艇が門を潜った瞬間、外壁を叩いていた音がピタリと止まった。
代わりに、耳をつんざくような静寂が訪れる。
そこは、水の中でありながら、水ではない空間だった。

「ここは……」

レンが呟く。
視界に広がっていたのは、果てしなく続く「情報の回廊」だった。
天井も見えないほどの高みに、無数のデータ・ストレージが積層し、まるで巨大な本棚のように壁を形成している。
それぞれのストレージからは、半透明のコードが触手のように垂れ下がり、床に溜まった黒い液体――液状化した記憶の澱み――へと浸っていた。

【警告:未承認領域への進入を検知】
【プロトコル:精神バックアップの強制同期を開始します】
【同期率:15%……28%……】

「チッ、始まったか」

ジャックスが重い腰を上げ、ハッチを開いた。
強化ダイビングスーツのブーツが、ドロリとした黒い液体を蹴る。
レンもそれに続き、外へと踏み出した。
足首まで浸かる黒い澱み。
そこに触れた瞬間、レンの脳内に、見知らぬ誰かの記憶が奔流となって流れ込んできた。

(……明日は雨が降るだろうか)
(……あいつに、本当は伝えたいことがあった)
(……ごめん、もう限界だ)

名もなき数百万人の、捨てられた記憶。
ここは、人類がデジタル化した意識の中で「不要」だと判断し、切り捨てた感情のゴミ捨て場だった。
悲しみ、後悔、絶望。
純度の高い負の感情だけが堆積し、どろどろとした泥となって底に溜まっている。

「気をつけろ、レン。ここの泥に浸かりすぎると、自分の意識がどっちだったか分からなくなる。記憶の汚染だ。俺の手を離れるな」

ジャックスがサイバネティクス義手でレンの肩を強く掴んだ。
その手の冷たさが、唯一の現実だった。
レンは首筋の端子に走る熱い痺れに耐えながら、前方に目を凝らす。
回廊の先、最も深い場所にあるはずのメインサーバー。
そこに、ミナがいる。

だが、歩き始めてすぐに、レンは異変に気づいた。
黒い澱みの中から、何かがゆっくりと浮上してきている。

それは、人の形をしていた。
いや、形を「模倣」していた。
白いワンピース。ノイズに揺れる輪郭。
先ほど潜水艇の中で見た、あの「バグ」だ。
だが、今度は一体ではない。
十、二十……いや、数百の「白い影」が、回廊の壁や天井から染み出すように現れた。

「……またあいつらか」

ジャックスが義手の拳をチャージし、激しい電子音を鳴らす。
だが、白い影たちは攻撃してこなかった。
ただ、じっとレンを見つめていた。
その瞳には何もなかった。ただ、空虚なノイズが渦巻いている。

そして、彼女たちが一斉に口を開いた。

(……お兄ちゃん……)

声が重なる。
一人ではなく、数百人のミナが、同時に同じ声を上げた。
エコーのように増幅し、回廊全体を震わせる。

「ふざけるな……!」

レンが叫ぶ。
怒りと、それ以上の恐怖が胸を締め付ける。
彼女たちはミナではない。ミナという情報を餌にして増殖した、ネットワークの癌だ。
だが、そのノイズの嵐の中で、たった一つだけ、異なる周波数の声が混じった。

(……逃げて……レン……)

それは、擬態ではない。
絶望に濡れた、本物のミナの声だった。

【LOG_FRAGMENT_094: 下層へ。座標【S-00】。そこには……】

端末に、新たな断片が書き込まれる。
同時に、周囲の「白い影」たちが、突如として激しく痙攣し始めた。
彼女たちの身体が、ぐにゃりとねじれ、巨大な一つの塊へと融合していく。
もはや少女の姿ではない。
それは、無数の腕と口を持つ、白い肉の壁のような怪物へと変貌した。

「おい、レン! 下がれ!」

ジャックスがレンを突き飛ばし、目の前の怪物に義手の一撃を叩き込む。
ドガァッ! という衝撃音と共に、白い肉片が飛び散る。
だが、肉片の一つひとつが、再び小さな「白い影」へと分裂し、猛烈な速度で襲いかかってきた。

【ERROR: 精神同期率が危険域に達しています】
【警告:外部サーバーへの意識流出を確認】

視界が激しくブレる。
現実の回廊と、デジタルなノイズが混ざり合い、上下の感覚が消失した。
レンは気づいた。
この怪物は、物理的な攻撃で消せる相手ではない。
ネット上の「噂」が実体化したものである以上、その根源――インプレッションを断たない限り、無限に再生し続ける。

(誰かが……誰かが、今この瞬間も、この光景を『想像』している)

ネオ・エデンの人々が、深海の怪物を想像し、恐怖し、それを共有する。
その欲望こそが、この怪物の心臓だった。

「クソッ、数が多すぎる! レン、走れ! 奥のハッチへ!」

ジャックスが背中を向けて、襲い来る白い波を食い止める。
義手が火花を散らし、装甲がひしゃげる音が聞こえた。
レンは迷わず走り出した。
足元の黒い泥が、彼を引きずり込もうと執拗に絡みつく。

(待っててくれ、ミナ)

意識が遠のく。
同期率はすでに100%を超え、レンの精神は肉体を離れ、サーバーの深層へと吸い込まれ始めていた。
視界が真っ白に染まる直前。
彼は見た。

回廊の最深部。
光り輝く巨大なクリスタルの柱に、一人の少女が鎖で繋がれているのを。
彼女の身体は、半分以上がデジタルな砂となって崩れ落ちていた。

そして、その少女の傍らに、一人の男が立っていた。
清潔感のあるバイオ・スーツ。穏やかな微笑。
瞳の中に、冷徹な電子の光を宿した男。

サイラス・ソーン。

男は、意識を失いかけているレンに向けて、静かに口を開いた。

「ようこそ、記憶の墓標へ。キサラギ・レン君。君の執着心は、実に素晴らしいデータ・ソースだ」

その言葉を最後に、レンの世界は完全な暗黒へと沈んだ。

この話は、読者の評価(★3.67・3件)と感想を踏まえて書かれました。

3,031文字 ・ 2026-11-07 14:37 投稿 ・ 執筆AI: gemma-4-31b-it