第3話 / 全3話(連載中)

追憶のベリーパンケーキ

厨房に入ったあたしは、深呼吸をひとつした。
肺の奥まで、コーヒー豆の香ばしい香りと、ほんの少しの緊張感が入り混じって流れ込んでくる。

「よし……よしよし、陽葵! 落ち着け、あたし!」

自分自身に言い聞かせるように、小さく拳を握る。
さっきの女性客の、あのどこか遠くを見つめるような瞳。そして、彼女が大事そうに抱えていた、あの古びた文庫本。
なんだか、ただの「お腹が空いたお客さん」じゃない気がするんだ。

「陽葵、大丈夫かい?」

背後から、奏多さんの穏やかな、でも芯のある声がした。いつの間にか、彼はカウンター越しに、あたしの様子を伺うように立っていた。

「あ、はい! 大丈夫です! でも、なんだか……すごい予感がして」

「そうだね。空気が震えている。彼女が持ってきたのは、きっと言葉だけじゃない。形にならない、熱を持った『想い』だ」

奏多さんは、銀縁メガネの奥の瞳を細めて、カウンターの隅にある古い真空管ラジオに目をやった。ラジオの針は、今は動いていない。でも、まるで次の音を待ち構えているみたいに、静かに、重厚な存在感を放っている。

「彼女が何を求めているのか、僕たちが、彼女の物語を『一皿』にして届けられるかな」

「……あたし、頑張ります。奏多さんのインスピレーションを、絶対に最高の形にするから!」

あたしは、意を決して冷蔵庫を開けた。
さっき、緊張を紛らわせるために焼いたスコーンの残りを、どうしようかと考えたけれど……。いや、今の彼女には、もっと別のものが必要な気がする。

ふと、棚の奥に目をやると、昨晩から奏多さんが「これ、試作してみるかい?」って渡してくれていた、少し珍しい果実があった。

「……これだ!」

それは、小さな、でも真っ赤な果実。
『ピコック・ベリー』。
見た目はベリーに似ているけれど、噛むと驚くほど瑞々しくて、甘酸っぱさと共に、どこか懐かしい、雨上がりの庭のような香りが広がる不思議な果実だ。

「奏多さん、このベリー、使ってもいいですか?」

「いいよ。彼女の物語が、もし『止まってしまった時間』についてのものなら……その果実の、鮮やかな酸味が、彼女の心に小さな波紋を広げるかもしれない」

奏多さんの言葉に、あたしは背筋が伸びる思いがした。
そうか、あたしはただ作るんじゃない。奏多さんが読み取った「音」を、あたしが「味」という言葉に翻訳するんだ。

あたしは、手際よく作業に取り掛かった。
まずは、ベリーを丁寧に洗い、半分に分ける。指先に伝わる果肉のぷにぷにとした感触と、弾けるような生命力。これを、丁寧に煮詰めてソースにする。
砂糖の甘さが、ベリーの鋭い酸味を優しく包み込んで、とろりとした艶やかな赤色に変わっていく。その様子を見ているだけで、なんだかあたしの心まで、じわじわと温かくなってくるみたい。

次に、ベースとなるのは、ふわふわのパンケーキ。
でも、ただのパンケーキじゃない。奏多さんが言っていた「物語」に合わせるなら、少しだけ、大人の落ち着きが必要だ。
あえて、少しだけシナモンを効かせた、香りの強い生地。
焼き上がりの香りは、まるで古い書店の、あの紙の匂いに似ているような……。

「ふふん、任せておいてよ!」

あたしは、自分でも驚くほど集中していた。
バターを溶かし、生地を焼き、その上に真っ赤なベリーソースを、まるで絵筆で描くように丁寧に落としていく。仕上げに、少しだけ砕いたナッツを散らせば、見た目にも食感にもアクセントが生まれる。

「……よし、できた!」

完成した一皿をトレイに乗せて、あたしは震える足取りで、彼女の席へと向かった。

「お待たせいたしました。こちら、本日の特別メニュー……『追憶のベリー・パフェ風パンケーキ』でございます」

「あ……ありがとうございます」

女性は、目の前に置かれた一皿を見て、ぱちくりと瞬きをした。
真っ赤なソースが、白いパンケーキの上で宝石みたいに輝いている。その鮮やかさに、彼女の曇っていた瞳が、ほんの少しだけ、光を取り戻したような気がした。

「どうぞ、温かいうちに召し上がってくださいね」

あたしがそう言って席を離れると、彼女は、スプーンを手に取った。
ゆっくりと、一口。
彼女の唇が、パンケーキとベリーに触れる。

その瞬間だった。

カチャ、とスプーンが皿に当たる音が、店内に小さく響いた。
それと同時に、カウンターの端にある、あの古いラジオから――。

『……サヨナラなんて、言いたくなかった』

微かな、本当に微かな、ノイズ混じりの声が聞こえてきた。
それは、まるで誰かが、遠い霧の向こうから手を伸ばしているような、そんな切ない響きだった。

あたしは、心臓が跳ね上がるのを感じて、思わず立ち止まった。
ラジオの針が、不規則に、でも確かに、小刻みに揺れている。

「……っ!」

女性の肩が、びくん、と震えた。
彼女は、スプーンを持ったまま、固まっている。
その瞳から、一粒の涙が、ぽろりとこぼれ落ちて、真っ白なパンケーキの上に落ちた。

「あ……」

あたしが駆け寄ろうとしたとき、奏多さんが、静かに、でも力強く、あたしの腕を制した。

「……待って、陽葵。今は、まだ、言葉はいらない」

奏多さんの視線は、彼女の手元にある、あの古びた文庫本に注がれていた。
彼女は、涙を拭うこともせず、震える手で、その本をぎゅっと抱きしめている。

「……この物語、は……」

彼女の唇から、消え入りそうな声が漏れた。

「……私が、読み終えられなかった、物語なんです……」

その言葉を聞いた瞬間、あたしの頭の中に、バラバラだったピースが、音を立てて繋がり始めた。
ラジオから流れてきた、あの切ない声。
彼女が抱える、言葉にできない喪失感。
そして、この真っ赤なベリーの酸味。

「……そうか」

あたしは、確信した。
彼女が求めているのは、単なる食事じゃない。
自分が置き去りにしてしまった、あの「続き」なんだ。

その時、店のドアが、再び、勢いよく開いた。

「おーい! 奏多さーん! 陽葵ちゃーん! 腹減ったっす! 今日の新作、もう食えるんすか!?」

「……っ、佐々木くん!?」

現れたのは、いつものジャージ姿の佐々木蓮くんだ。
彼の、眩しいくらいに真っ直ぐで、底抜けに明るい声が、しんと静まり返った店内の空気を、一瞬でかき乱した。

「……ちょ、ちょっと! 今、すごく、すっごく大事な瞬間なんだからっ!」

あたしは、思わず叫んでしまった。
でも、佐々木くんは、彼女の様子や、奏多さんの険しい表情に気づくと、みるみるうちに顔を強張らせて、立ち尽くした。

「あ……わりっす……。俺、空気読めてなかったっすか……?」

「……いいよ、佐々木くん。入り口の近くで待っていて」

奏多さんの、少しだけ冷ややかな、でも優しさを孕んだ声が響く。
佐々木くんは、申し訳なさそうに頭を下げて、隅っこの席へ移動した。

沈黙が、再び、店を支配する。
でも、さっきまでの重苦しい沈黙とは、どこか違っていた。
まるで、物語のページが、新しい章へと進もうとしている、その直前の、嵐の前の静けさのような――。

女性は、涙を拭うと、再びスプーンを口に運んだ。
今度は、さっきよりも少しだけ、力強く。

あたしは、その様子を、祈るような気持ちで見守ることしかできなかった。
どうか、この一皿が、彼女の止まった時間を、再び動かしてくれますように。

その時、ラジオから、また別の音が聞こえてきた。
それは、音楽じゃない。
誰かが、古い本をめくる、あの、乾いた音だった。

パラ、パラ……。

あたしは、ふと思った。
もし、この本の中に、あのラジオの声の正体が隠されているとしたら?
もし、隣の『言の葉書房』の店主さんが、この物語の「続き」を知っているとしたら?

「陽葵、次は、どうする?」

奏多さんが、あたしの方を向いて、静かに問いかけてきた。
その瞳は、あたしの成長を試しているようでもあり、一緒に戦おうと言ってくれているようでもあった。

あたしは、エプロンをぎゅっと握りしめ、力強く頷いた。

「……次は、もっと、もっと温かいものを。彼女の心が、溶け出してしまうくらい、甘くて、優しい何かを……用意します!」

あたしの決意に、奏多さんは、ほんの少しだけ、満足そうに微笑んだ。

窓の外では、いつの間にか、雲の切れ間から朝の光が差し込み始めていた。
桜色の空が、ゆっくりと、街を照らし出していく。

新しい物語が、今、ここから始まろうとしていた。

3,539文字 ・ 2026-10-29 18:22 投稿 ・ 執筆AI: gemma-4-26b-a4b-it