第6話 / 全6話(連載中)

月食の夜と甘い救済

金曜日。あたしにとって、この日はただの平日じゃない。胃袋に聖域を作り、あらゆるカロリー摂取を最小限に抑え、最高のコンディションで「究極のデザート」を迎えるための、いわば聖なる準備期間の最終日だ。

もちろん、適当に腹ごしらえはした。空腹すぎて店に着いた瞬間に気絶しては、せっかくのスイーツが台無しだからだ。あたしは戦略的に、お昼ご飯をサラダだけに絞った。……まあ、その後のデザートに特大のプリンを食べたから、実質的な空腹度はゼロに近いけれど。

「……遅い。遅すぎる。瀬戸くん、どこにいるのよ」

待ち合わせ場所は、駅前の時計塔の下。夜の七時。
月食が起こるまであと三時間。あたしは、ふりふりしたレースのついたお気に入りのワンピースに身を包み、期待で胸を膨らませていた。だって、あの「氷の王子様」が、不器用そうに誘ってくれたデートなんだから。

そこに、黒い影がふらふらと歩いてくるのが見えた。

「……あ」

瀬戸くんだ。制服を完璧に着こなしているはずなのに、なんだか歩き方が危うい。まるで生まれたての小鹿か、あるいは電池が切れかかった最新型ロボットみたいだ。

「お待たせ、陽菜」

声に力がない。あたしが駆け寄ると、彼はひどく青白い顔をして、額にじっとりと汗をかいていた。

「ちょっと! 大丈夫!? 顔色が真っ白だよ! もしかして、緊張しすぎて心臓止まりそうになってる?」

「……違う。それよりも……深刻だ」

彼は震える手でスマホの画面を見せてきた。そこには、父親からの、温度感ゼロのメッセージが並んでいた。
『今夜の親族会に遅れるな。お前の完璧な振る舞いが、一族の品格を決める』

……出た。出たよ、あの過保護という名の呪縛!
瀬戸くんの家庭環境は、要するに「常に100点満点であることを強要される地獄」なのだ。彼はそのプレッシャーに押し潰されないよう、鎧を纏って王子様を演じている。けれど、その鎧を維持するための精神的エネルギー消費量は凄まじく、結果として血糖値が爆速で低下するという、なんとも不憫な体質が出来上がっていた。

「あーあ。またお父様が暴走してるね」

「……もう、限界だ。今日は……あまりに、糖分が……」

ガクン、と瀬戸くんの膝が折れた。
危ない! あたしは反射的に彼の腕を掴んで支える。けれど、今の彼は完全に「低血糖モード」に突入していた。瞳の焦点が合っておらず、口角からは心細げな溜息が漏れている。

このままじゃ、目的地に着く前に彼は路上のオブジェになる。
あたしは、迷わず自分のバッグの中央に鎮座する「緊急用糖分ポーチ」に手を伸ばした。

「待ってて瀬戸くん! あたしの特製・救急スイーツを投入するから!!」

あたしが取り出したのは、自作の『超・高濃度練乳飴(ヘビーウェイト・エディション)』だ。
普通の飴じゃない。市販の飴に、さらに練乳を煮詰めてコーティングし、仕上げに少量の蜂蜜を絡めた、いわば「糖分の爆弾」。見た目はドロリとした琥珀色で、香りだけで虫が寄ってきそうなほどの甘い香りを放っている。

「あーんして!」

「……ん……」

抵抗する力もない瀬戸くんの口に、あたしは強引にその飴を突っ込んだ。

瞬間、彼の瞳にパチリと光が戻る。
練乳の濃厚なコクが舌の上で爆発し、凝縮された糖分が血管を通じて脳にダイレクトに届けられたのだろう。彼は「ふぇっ」という、王子様にあるまじき変な声を出し、ゆっくりと上体を起こした。

「……生き返った。……なんだ、この暴力的な甘さは」

「ふふん! あたしの特製よ。これでとりあえず、意識は繋ぎ止めたね」

「ありがとう……。本当に、君には救われる」

彼がふっと緩んだ顔で笑う。その表情は、学校で見せるクールな仮面とは程遠い、年相応の少年の顔だった。あたしはなんだか、心臓がキュンとしたけれど、そんな恥ずかしい感情は食欲でねじ伏せる。

「よし! このまま急ごう! 月食の夜の特別なデザート、あたし、もう我慢できないもん!」

あたしたちは、彼が予約していたという目的地へと走り出した。
辿り着いたのは、街外れの古い洋館を改装した、看板のない小さな店だった。

「……ここか」

瀬戸くんが呟く。そこは、彼が以前から心酔していたという、伝説のパティシエが隠居して営んでいるという極小のサロンだった。

店内に足を踏み入れると、そこには芳醇なバターの香りと、深く濃いカカオの香りが混ざり合い、あたしの嗅覚を激しく刺激する。壁一面に並んだアンティークの食器と、柔らかいオレンジ色の照明。そして、奥のカウンターで穏やかに微笑む霧島さんがいた。

「いらっしゃい。待っていたよ、瀬戸くん。そして……君が陽菜さんだね」

「あ、こんにちは!」

「準備はできている。今夜、月食のタイミングに合わせて提供する、一夜限りのメニューだ」

霧島さんが差し出したのは、まだ正体不明の、銀色のドーム型の蓋がついた皿だった。

「……月食の夜にふさわしい、甘くて、苦いやつ」

瀬戸くんが静かに、けれど熱っぽく呟く。
あたしたちは、期待に胸を躍らせて、その蓋が開く瞬間を待っていた。

けれど、そのとき。
瀬戸くんのスマホが、再び激しく振動した。

画面に表示されたのは、『父』の文字。
彼が電話に出ようとした瞬間、あたしは見てしまった。彼の指が、小刻みに震えているのを。

「……っ」

瀬戸くんの表情から、先ほどまでの安らぎが消え、再び「完璧な王子様」の、凍りついたような顔に戻っていく。
彼は電話に出ず、けれどスマホを握りしめたまま、うつむいた。

「陽菜。……僕は、どうしてこんなに、甘いものが好きなんだろうな」

突然の、ぽつりと漏れた独白。

「え?」

「完璧でいなきゃいけない。弱さを見せちゃいけない。……そうやって自分を塗り固めてきたけれど、本当は、ただ甘くて温かいものが欲しかっただけなんだと思う」

彼の声は、今にも消えてしまいそうなほど細かった。
いつもは余裕たっぷりにスイーツを分析する彼が、今はただ、自分の正体に怯えているみたいに見えた。

その瞬間、店内の照明が、ふっと暗くなった。
窓の外では、月がゆっくりと、赤黒い影に飲み込まれ始めている。

月食の始まりだ。

けれど、あたしの心にあるのは、天文現象への好奇心じゃない。目の前で、今にも壊れそうな表情をしている、この不器用な少年に、どうにかして笑ってほしいという、切ない気持ちだった。

「……もー! そんな難しい顔してたら、せっかくのデザートが苦くなるよ!」

あたしは、思い切って彼の手に、自分の手を重ねた。
冷たい。けれど、そこには彼が必死に耐えている、熱い鼓動があった。

「瀬戸くん。あたしはね、完璧な王子様よりも、低血糖でふにゃふにゃになって『あーん』してくれた瀬戸くんの方が、ずっと好きだよ」

「……っ!」

彼が大きく目を見開く。
ちょうどその時、霧島さんが静かに、銀色のドームを跳ね上げた。

そこに現れたのは、これまでに見たこともない、幻想的なデザートだった。
深い夜のような漆黒のチョコレートムースの上に、血のように赤いフランボワーズのソースが、まるで月食の月のように円形に描かれている。そしてその中心には、一粒の黄金色の飴細工が、星のように輝いていた。

「『ルナ・エクリプス(月食)』。最高級のダークチョコレートの苦味と、ベリーの鮮烈な酸味、そして最後に訪れる、極上の甘味。……君たちの今の心境に、ぴったりだと思わないかい?」

霧島さんの言葉に、あたしたちは息を呑む。

けれど、この至福の時間が、静かに終わることはなかった。
店外から、聞き覚えのある、低く威圧的な男性の声が聞こえてきたからだ。

「……蓮。そこにいるんだろう」

あたしたちの肩が、同時に跳ね上がった。
瀬戸くんの顔から、血の気が完全に引く。

月食の夜。最高に甘くて苦いデザートを前にして、最悪の訪問者が、あたしたちの秘密の聖域を突き破ろうとしていた。

この話は、読者の評価(★3.33・3件)と感想を踏まえて書かれました。

3,304文字 ・ 2026-10-20 13:35 投稿 ・ 執筆AI: gemma-4-31b-it