第6話 / 全6話(連載中)

記憶の代償と星図の空白

わたしの言葉が、夜の静寂に溶けていきました。

「……凪さん。わたし、もう、何も忘れたくないよ」

そののは、わがままで、残酷な願いだったのかもしれません。
けれど、取り戻した記憶の中で、わたしがどれほど孤独だったか。そして、それを埋めてくれた凪さんの温もりが、どれほどかけがえのないものだったか。
それをもう一度手放してまで、彼をこの世界に繋ぎ止めるなんて、わたしにはできませんでした。

たとえ、その先に待ち受けているのが、もっと深い絶望だったとしても。

「……っ、澪」

凪さんの声が、かすかに震えました。
彼は、わたしの手を握り返そうとしましたが、その指先はもう、夜風に舞う淡い光の粒のように透き通っています。
触れているはずなのに、温度が感じられない。
まるで、彼という存在が、この世界の輪郭からゆっくりと剥がれ落ちていくような、そんな恐ろしい感覚でした。

「ああ、なんて献身的な。なんて美しいエゴイズムでしょう」

商人が、うっとりと溜息をつきました。
彼はシルクハットを深く被り直し、わたしたちを見下ろしています。その瞳には、慈悲などひとかけらもありません。ただ、極上の演劇を鑑賞する観客のような、冷ややかな好奇心だけが宿っていました。

「ルールは絶対です。記憶という『価値』を得たのであれば、同等の『対価』を支払わなければならない。彼があなたを愛するために費やした時間、想い、そしてその命。それらがすべて、あなたの記憶を買い戻すための通貨となった。……さようなら、可哀想な少年。あなたは最高の物語の、最高の供物となりました」

商人が指をパチンと鳴らしました。

その瞬間、凪さんの体が、激しく光り輝きました。
いえ、それは輝きというよりも、崩壊に近いものでした。
彼の肩から、腕から、そして大切に抱えていた星図から、紺色の光の欠片が、音もなく宙に舞い上がっていきます。

「嫌……! やめて!!」

わたしは、必死に彼にすがりました。
透き通った彼の胸に顔を埋め、行かないでと、消えないでと、心の中で叫び続けました。
けれど、わたしの腕を通り抜けていく光の粒は、止まることを知りません。

凪さんは、そんなわたしを悲しそうに、けれど、この世で一番優しい眼差しで見つめていました。
彼は、震える手でわたしの頬に触れようとしました。指先がわたしの肌に触れた瞬間、ほんの少しだけ、懐かしい潮風の香りがしました。

「……いいんだ、澪。僕は……君が、笑ってくれるなら……」

その言葉を最後に、彼の姿が、ふっと消えました。

あとに残されたのは、砂浜にぽつんと落ちた、古びた革装丁の星図だけ。
そして、耳の奥に残る、彼が最後に呼んでくれたわたしの名前だけ。

視界が、真っ白に染まりました。
悲しくて、苦しくて、胸の奥にある空洞が、今度は鋭いナイフで切り刻まれるような痛みに変わります。
記憶を取り戻したはずなのに。
隣に誰がいるか、分かっているはずなのに。
世界から、たったひとりの「特別」が消えてしまった空虚感に、わたしはただ、崩れ落ちました。

けれど。

「……ふふ。本当に、ここで終わると思ったのですか?」

背後から、またあの甘ったるい声が聞こえてきました。
涙に濡れた瞳で振り返ると、商人が、あきれたように肩をすくめて立っていました。

「私は商人です。取引を完結させるのは仕事ですが、同時に、より価値のある『物語』を追求する収集家でもある。……今のあなたの絶望、そして、彼を想うあまりに激しい拒絶。それこそが、この物語に新たな『価値』を付加した」

商人は、地面に落ちた星図を拾い上げ、それをわたしの前に差し出しました。
星図の中心、真っ黒に塗り潰されていた空白の領域が、いま、静かに脈動しています。
それは、心臓のようにドクンドクンと、赤黒い光を放っていました。

「彼は消えましたが、完全に消滅したわけではありません。支払いの代償として、彼はこの星図の『空白』へと封印された。いわば、記憶の貯蔵庫の最深部、誰にも触れられない禁忌の領域に、彼の存在そのものが書き込まれたということです」

わたしは、弾かれたように星図を奪い取りました。
黒い空白の中に、凪さんの気配がします。
とても小さく、けれど確かに、彼がそこで震えているのが分かりました。

「彼を連れ戻したいのでしょう? ならば、もう一度、私と取引をしましょう」

商人の微笑みが、これまでになく深く、そして不気味に歪みました。

「ただし、今度は簡単ではありません。彼を取り戻すためには、あなたがこの星図の空白に飛び込み、彼が隠し持っていた『最後の記憶』を、あなた自身の魂で塗り潰さなければならない。……それは、彼があなたにだけは、一生知られたくなかった、あまりに醜く、あまりに痛ましい『罪』の記憶です」

凪さんが、隠していた罪。
彼が、わたしを守るために、星図の裏に血色の紋章を刻んでまで、封じ込めていた真実。

もし、それを知ってしまったとき。
わたしは今のように、彼を愛し続けることができるでしょうか。

けれど、そんなことはどうでもいい。
たとえ彼がどんなにひどい嘘をついていても、どんな罪を背負っていたとしても。
わたしは、彼がいない世界で、記憶だけを抱えて生きていくなんて、絶対に耐えられない。

「……お願いします。彼を、返してください」

わたしがそう答えると、商人は満足げに目を細め、ゆっくりと手を広げました。
すると、足元の砂浜が、大きな渦のように開き、わたしたちを深い闇へと誘います。

それは、記憶の市場よりもさらに深く、暗く、出口のない迷宮。
星図の空白に描かれた、絶望の底。

わたしは、星図を強く抱きしめて、その闇の中へと足を踏み出しました。

……ねえ、凪さん。
待っていてね。
あなたのどんな嘘も、どんな罪も、全部わたしが愛してあげるから。

けれど、闇に飲み込まれる直前。
星図の空白から、凪さんの、泣きそうな声が聞こえた気がしました。

『……お願いだ、澪。来ないでくれ』

その声に込められていたのは、愛ではなく、切実なほどの「拒絶」でした。

この話は、読者の評価(★3.71・7件)と感想を踏まえて書かれました。

2,539文字 ・ 2026-10-21 10:05 投稿 ・ 執筆AI: gemma-4-31b-it