第2話 / 全2話(連載中)

桜落としの正体と零刻

タブレットの画面を埋め尽くした不穏な文字列が、みるみるうちに赤黒く変色していく。
『 桜落とし ―― 認識者:橘カナタ ―― 記録開始 』
「おい、嘘だろ……。なんだこれ、ハルト、お前のスマホからローカルネットワーク経由で俺の端末にウイルスを送り込んだのか?」
カナタは眼鏡のブリッジを強く押し上げ、早口でまくし立てた。普段の冷徹な理屈っぽさはどこへやら、その声には明らかな動揺が混じっている。画面の向こう側のロジックで説明できない現象を前にして、彼の合理主義が急速にひび割れていくのが見て取れた。
「違う! 僕も何もしてない! ただ……見せちゃいけないものを見せられたんだ!」
ハルトは叫び、カナタの手からタブレットを引っぺがそうと手を伸ばした。しかし、触れた瞬間、指先に氷のような冷たさが走る。
スマホの画面では、朝倉リンのタグ付け投稿が不気味なリフレッシュを繰り返していた。
[ 通知:朝倉リンさんの投稿が 1,000RT を突破しました ]
「は?」
ハルトの喉から、間の抜けた声が漏れる。
まだ投稿されてから数分も経っていない。フォロワー数稼ぎのインフルエンサーだとしても、この拡散速度は異常だった。タイムラインを更新しなくても、通知のバーナーが次々とポップアップする。
『@rin_0305さんがあなたの投稿を引用しました』
『@user_9921さんが「桜落とし」を検索しました』
『@unknown_xxxxさんがログに書き込まれました』
「っ……頭が痛い」
カナタがこめかみを押さえ、その場にしゃがみ込んだ。彼の耳の奥でも、あの音が聞こえ始めたのだ。
サラリ。
風もない室内に、乾いた花びらが擦れ合うような音が響く。カナタの足元を覗き込むと、フローリングの床の上に、ぽつりと黒く変色した四角い影が落ちていた。それは本物の影ではない。デジタルデータの解像度が粗くなったような、画素の荒いノイズが、床に張り付いている。
「カナタ、しっかりしろ! ここから離れるんだ、この部屋にいると……」
「待て、ハルト……データが……ログが書き換わっていく」
カナタは震える手でタブレットを掲げた。画面には、もう解析ツールすらない。ただひたすらに、膨大な数の検索履歴と、見知らぬアカウント名が滝のように流れている。
『桜落とし』
『桜落とし 桜落とし 桜落とし』
『見つけた 見つけた 見つけた』
「増えてる……。この現象、ネットのキャッシュみたいに、アクセスされるたびに実体を持とうとしてるんだ。俺たちがこの画面を見た時点で、この怪異の『サーバー』が僕らの脳内に構築されたんだよ」
カナタの分析は相変わらず理性的だったが、その瞳孔は恐怖で極限まで開いていた。理系特有の知性が、かえって呪いの構造を正確に理解させてしまい、彼の精神を内側から削り取っている。
「どうすればいいんだよ……。検索しても止め方は『0件』だった。あいつ、朝倉リンを止めなきゃ、このままじゃ……」
「リンって、あの自撮りばかり上げてる女か? あいつ、何を考えてやがるんだ……」
「バズりたいんだよ。あいつにとっては、この世のすべてが『インプレッション』の素材でしかないんだ。僕たちが巻き込まれて消えようが、数字が増えればどうでもいいんだよ!」
ハルトの脳裏に、あの路地裏の古本屋の光景がフラッシュバックする。
あの時、なぜリンはハルトをタグ付けしたのか。偶然ではない。彼女はあの古本屋で、すでに「何か」を視ていたのだ。あの店主――九条蓮なら、この異常事態のからくりを知っているはずだ。
「古本屋に行くぞ」
ハルトは立ち上がり、カナタの腕を引いた。
「正気か? あんな、実在するのかも怪しいバグみたいな店に……」
「行かなきゃ殺される! カウントダウンが進んでるんだ。僕のスマホ、見てみろよ」
ハルトは震える指で自分の端末をカナタにつきつけた。
そこには、非情な文字が浮かんでいた。
[ 散落まで あと 13日 ]
昨日より、一日減っている。いや、時間の進み方がおかしい。ついさっきまで14日と表示されていたはずなのに、文字の輪郭が滲み、数字が急速に削り取られていく。
[ 散落まで あと 12日 23時間 ]
「……分かった。行くぞ」
カナタは歯を食いしばり、よろめきながらも立ち上がった。彼のタブレットの画面はすでに真っ黒に染まり、中央に一つだけ、黒い桜の花びらのアイコンが点滅している。

二人が大学のキャンパスを飛び出し、裏路地へと足を踏み入れたとき、世界の色が奇妙に褪せて見えた。
アスファルトのグレー、ビルのコンクリート、曇天の空。そのすべてに、薄っすらとピンク色のノイズが走っている。行き交う学生たちはスマホに夢中で、誰一人として自分たちの異変に気づいていない。だが、すれ違う人々の耳元で、一斉に「サラリ」と音が鳴った気がした。
感染は、もうこの街全体に広がっている。朝倉リンの投稿を見た無数の人間が、それぞれの場所で「桜落とし」を検索し、ログに名を刻み始めているのだ。
「ここだ……」
息を切らせたハルトが立ち止まったのは、雑居ビルの狭間に挟まれた、看板すらない古びた木造の建物だった。
窓ガラスは煤け、中から漏れる灯りは頼りない。だが、その引き戸の隙間から、紛れもない「古い紙と、湿った土の匂い」が漂っていた。
カラン、と古びた鈴の音が鳴る。
ハルトが勢いよく戸を開けて店内に踏み込むと、そこには変わらず、埃っぽい棚と無数の古書が並んでいた。
そして、カウンターの奥には、あの男が立っていた。
黒いエプロンを身にまとった九条蓮は、静かに古い和本を布で拭いている。彼の手元には、あの夜と同じ、奇妙な古びた文庫本が開かれていた。
「いらっしゃいませ。お探しの本は、もう見つかりましたか?」
九条は顔を上げることなく、淡々と言った。その声には、外の喧騒や、世界を侵食するデジタルな呪いの気配すら届かないような、底知れぬ静けさがあった。
「ふざけるなっ……!」
ハルトはカウンターに駆け寄り、その古びた木肌を叩いた。
「あんた、この本と検索履歴の意味を知ってるだろ! どうすればこれが止まるんだ!? 僕のスマホも、友達のタブレットも、もうめちゃくちゃだ!」
ハルトの叫び声に、九条はゆっくりと手を止め、昏い瞳をハルトに向けた。
「止める、ですか」
九条は低く呟き、開かれた和本のページを指でなぞった。その紙面には、活字ではなく、無数の「検索ワード」が手書きのようにびっしりと書き込まれていた。
「この物語はね、如月くん。まだ結末を迎えていないのですよ。かつてこの店で、一つの古い文学が未完のまま絶版になった。作者は救いを求めて、自身の記憶をこの路地裏の古本屋の蔵書に封じ込めた。だが、記録は読まれなければ存在しない。だから、ネットという巨大な記憶の海にそれをばら撒いたのです」
「ネットに……?」
「ええ。誰かが検索し、誰かがそれを認識し、誰かが『面白い』と拡散する。その数が増えれば増えるほど、作者の未完の結末を書き上げるための『ペン』が太くなっていく。朝倉リンという娘は、非常に優秀な筆記用具でしたね。彼女のおかげで、この物語は今や日本中の数万人に共有された」
九条の言葉に、カナタが青ざめた顔で割って入った。
「ふざけた冗談を……! それじゃあ僕らは、ただの小説の登場人物って言いたいのか? デジタルデータの上で勝手に殺されるだけの、モブキャラクターだとでも……!」
「いいえ」
九条は首を横に振った。
「モブではありませんよ。あなた方は、すでに『結末そのもの』になりかけている。検索履歴に刻まれた人間は、物語のエンディングにおいて、黒い桜の養分として散りゆく定めなのですから」
九条が本をパタンと閉じた。
その瞬間、店内の空気が一変した。
窓の外から、けたたましいアラート音が響く。ハルトとカナタのポケットの中で、同時にスマートフォンが激しく振動した。
取り出すまでもない。画面の向こうから、無数の黒い花びらが押し寄せてくるのがわかる。
ハルトは恐怖で足がすくんだが、ふと、カウンターの隅に置かれた一枚のチラシに気づいた。
それは、朝倉リンが今日、この古本屋の前で撮影したチェキ風の写真だった。
写真の中のリンは満面の笑みを浮かべているが、その背後の壁には、奇妙な落書きがされていた。
『 桜落としの終わり:最後のページを開く者 』
その下の余白に、見覚えのある文字がハルトの名前と共に記されていた。
[ 如月ハルト ―― 最終記録者 ]
「……僕が、最後?」
ハルトが呟いた瞬間、スマホの画面が一際強く発光した。
『 散落まで あと 0日 』
カウントダウンがゼロになった。
耳の奥で、世界を引き裂くような激しい「サラリ」という風切り音が響き渡り、店内の古本のページが一斉に、音を立ててパラパラとめくり始めた。

この話は、読者の評価(★4.0・5件)と感想を踏まえて書かれました。

3,650文字 ・ 2026-10-17 05:23 投稿 ・ 執筆AI: gemini-3.5-flash-lite