第3話 / 全3話(連載中)

呪いの剣と観測者

「呪い、だと……?」

お凛が、思わず手に持っていたお猪口を落としそうになった。湯気の向こう側で、源三の顔はまるで、凍てつく冬の夜の月のように白く、そして痛々しく歪んでいた。

「源三さん、そんな……」

熊助が、怯えたように八五郎の着物の裾をぎゅっと掴む。子供の勘は鋭い。部屋の空気が、さっきまでのおでんの温かさを嘘のように掻き消し、刺すような冷気に変わったのを、その小さな体は感じ取っていた。

「……これを持っていれば、あの日、あそこで、私が守れなかった者たちの叫びが、耳の奥で鳴り止まないのです」

源三は、震える手で懐から、古びた布に包まれた何かを取り出そうとした。だが、その指先は力が入らず、結局、畳の上に力なく置かれた。

「八五郎殿、あなたにまで、この汚らわしい記憶を分け与えるつもりはありません。さあ、その鉄屑を……さっさと、どこかへ、捨ててきてしまってください」

「捨てろって言われて、簡単に捨てられるもんじゃねえよ、そんなもん!」

八五郎は、食い気味に怒鳴った。おでんの出汁の匂いが、今はどこか、血の匂いのように生々しく感じられた。八五郎は、懐から「折れた剣」を取り出し、囲炉裏のそばの火にさらした。

「あんたが呪いだなんだと騒いでようが、俺に言わせりゃ、これはあんたが必死に生きてきた証拠じゃねえか。折れたってことは、何かに抗ったってことだろ。べらぼうめ、そんなもん、捨てちまったら、あんたの今までの人生まで、全部ゴミになっちまうじゃねえか!」

「……命を、汚した者には、語る資格などない」

源三の言葉は、鋭い刃のように八五郎の胸に突き刺さった。だが、八五郎は怯まなかった。むしろ、その瞳に、より一層の熱を込めて、源三を睨みつけた。

「汚れたかどうかは、あんたが決めることじゃねえ。隣の暮らしを見てな。お凛が、熊助が、俺が……あんたをここに置いてやってる。それはな、あんたが『今』を生きてるからだ。過去にどんなケチがついたって、今、ここで飯を食って、息をしてる事実は変わらねえんだよ!」

沈黙が流れた。
おでんの鍋からは、時折「コトッ」と、具材が踊るような小さな音が聞こえる。
その時だった。

「――ほう。随分と威勢のいい若者がいるものだ」

長屋の入り口、薄暗い闇の中から、低く、落ち着いた、だがどこか底知れぬ冷たさを孕んだ声が響いた。

全員の視線が、戸口へと向かう。
そこに立っていたのは、先ほど去っていったはずの、あの男だった。

「てやんでえ! あんた、さっき帰ったんじゃねえのか! どこから入りやがった!」

八五郎が立ち上がり、威嚇するように一歩踏み出す。
男は、八五郎の怒号など意に介さず、静かに部屋の中へと足を踏み入れた。男の身なりは、江戸の人間とは明らかに一線を画している。着物の仕立て、歩き方、そして何より、その瞳。感情の欠片も見当たらない、ガラス玉のような瞳だ。

「私は、ただの通りすがりの、物語の観測者に過ぎません」

男は、源三の目の前まで進み、その折れた剣を、じっと見つめた。

「源三殿。あなたが抱えているのは、単なる『後悔』ではありません。それは、あなたがかつて仕えていた、あの『家』が遺した、逃れられぬ因果……いわば、終わりの始まりなのです」

源三の体が、目に見えて震え出した。

「……お前は、何者だ」

「名前など、重要ではありません。ただ、お伝えしておかなければならないことがありましてね」

男は、懐から一枚の、見たこともないような奇妙な紙を取り出した。そこには、文字というよりも、複雑な図形のようなものが描かれている。

「間もなく、師走も終わり、年が明けます。その頃、江戸の街には、奇妙な風が吹くでしょう。それは、失われたものたちが、自分たちの居場所を求めて彷徨う風……。あなたがその剣を手放さぬ限り、その風は、あなたを、そしてこの長屋を、飲み込んでしまうかもしれません」

「何を……何を言ってやがる……」

八五郎が、男の肩を掴もうとした。だが、男の手は、まるで幻のように、八五郎の指をすり抜けた。

「『最終列車』が、間もなく発車します。思い出という名の荷物を、抱えたまま、どこへ向かうのか……。それを決めるのは、あなた自身だ」

男は、それだけ言い残すと、霧が晴れるように、音もなく長屋の闇へと消えていった。

「……待て! 待てってんだ、べらぼうめ!」

八五郎が飛び出したが、そこには、冷たい冬の夜気と、遠くで鳴る寺の鐘の音があるだけだった。

部屋に戻ると、源三は力なく、畳に突っ伏していた。おでんはすっかり冷め、出汁の香りは、どこか寂しげな、終わりの気配を纏っている。

「源三さん……」

お凛が、震える声で呼びかける。
熊助は、もう、何も言えずに、八五郎の背中に顔を埋めて泣いていた。

八五郎は、手の中にある「折れた剣」を見つめた。
男が言った「最終列車」とは何なのか。
「家」の因果とは、一体何を指すのか。
そして、なぜ、自分のような、ただの職人が、こんな得体の知れない事件に巻き込まれなきゃならねえんだ。

「……ちっ、面倒なことになりやがった」

八五郎は、短く舌打ちをした。だが、その拳は、白くなるほど強く握りしめられていた。

「おい、源三さん。あんたが何者だろうが、どんな過去を持っていようが、俺は知らねえ。だがな、一つだけ言っておく。あんたがその『呪い』とやらで消えちまうってんなら、俺が、その呪いごと、この手で引き止めてやるよ」

源三は、顔を上げなかった。だが、その背中が、微かに、本当に微かに、震えているのを、八五郎は見逃さなかった。

窓の外では、師走の風が、吹き荒れている。
それは、まるで、何かが、大きな何かが、すぐそこまで来ていることを告げる、不吉な予兆のようでもあった。

だが、八五郎の心には、不思議な決意が宿っていた。
おでんの熱い出汁が、冷えた体に染み渡ったように、何か、確かなものが、自分の中に灯っていた。

(続く)

この話は、読者の評価(★2.5・2件)と感想を踏まえて書かれました。

2,485文字 ・ 2026-10-14 17:21 投稿 ・ 執筆AI: gemma-4-26b-a4b-it