第2話 / 全3話(連載中)

冬の長屋とおでんと呪い

師走の空は低く、どこか刺すような寒さが深川の路地を支配していた。
凍てつく風が吹き抜けるたび、長屋の戸をガタガタと震わせる。だが、そんな寒さも、どこからか漂ってくる出汁の香りと、人々の賑やかな声にかき消されてしまう。

「さあさあ、おいでよ! 熊助、そんなところで突っ立ってねえで、大根を剥けってんだ!」

お凛の威勢のいい声が、夕暮れ時の長屋に響き渡る。彼女の住む部屋の囲炉裏には、大きな鍋が鎮座し、白く、それでいて食欲をそそる湯気を勢いよく立ち昇らせていた。

「へいへい、分かってるよ。お凛姉ちゃんは、いつも急かすんだから」

熊助は泥のついた手を着物に拭い、器用に大根の皮を剥いていく。その横で、八五郎は鍋の蓋を覗き込みながら、ふんと鼻を鳴らした。

「へっ、いい出汁が出てやがるな。これなら、あの頑固親父の喉も、少しは潤うかもしれねえ」

「八五郎さん、そんなこと言って、また源三さんに怒られちゃうよ?」

お凛が苦笑いしながら、煮え立つ出汁から大きな大根を取り出した。透き通った琥珀色の汁が、大根の断面に滴り落ちる。

「怒られたって構わねえよ。あんなツラして、独りで寒空の下、腹を空かせてるってんなら、こっちの寝覚めが悪りぃんだ」

八五郎はそう言いながら、手元にある「折れた剣」を思い出した。懐に忍ばせた鉄の塊は、冷たく、どこか重い。源三は「鉄屑だ」と言い放ったが、あの時の、震える指先までは嘘じゃなかったはずだ。

「……ねえ、八五郎さん」

お凛が、少し声を落として尋ねてきた。

「なんだよ、お凛」

「源三さん、本当にただの、気難しいおじいさんなのかな。さっきの八五郎さんの顔、なんだかすごく、悲しそうに見えたから」

「……べらぼうめ。俺がそんな湿っぽい面してんのかよ」

八五郎は照れ隠しに、鍋の湯気を手で仰いだ。だが、言葉とは裏腹に、胸の奥には割り切れぬざわつきがあった。

その時だった。

「……失礼いたします」

低く、抑えられた声が、長屋の入り口付近から聞こえてきた。
八五郎と、お凛、そして熊助の動きが止まる。
現れたのは、源三ではなかった。
深紺色の、どこか品のある着物を纏った、中年の男だった。髪は整えられ、その眼差しには、この長屋の住人とは明らかに違う、理知的で、かつどこか冷徹な光が宿っている。

「おや、お隣の八五郎殿。また騒がしくしておられるようだ」

「あんたは……」

「私は、源三殿の旧知の者。……いえ、正確には、彼がかつて仕えていた家系の者とお伝えしておきましょうか」

男の言葉に、八五郎は身構えた。ただの隣人同士のやり取りではない。空気が、一瞬にして張り詰めたものへと変わる。

「源三さんに、知り合いがいるのか?」

「ええ。ですが、彼が今、どのような心境でこの長屋におられるか、私は存じ上げません。ただ、一つだけ忠告しておきましょう」

男は、囲炉裏の湯気を冷ややかに見据えた。

「源三殿は、過去を捨てたと仰る。それは、捨てたのではなく、封印したのだ。無理にこじ開けようとすれば、あなた方も、彼も、傷つくだけですよ」

「てやんでえ! 誰がこじ開けるってんだ! 俺はただ、飯を食わせようってだけだ!」

八五郎が立ち上がると、男は小さく、嘆くような溜息をついた。

「……情に厚いのは結構ですが、江戸の冬は、思っているよりもずっと残酷なものです」

男はそれだけ言うと、夜の闇へと溶け込むように、音もなく立ち去っていった。

残された三人の間に、重苦しい沈黙が流れる。熊助が、不安そうにお凛の裾を掴んだ。

「……ねえ、あの人、誰なの? 源三さん、怖い人なの?」

「……さあな。だが、あのおっさんが、ただの隠居じゃねえってことは分かったぜ」

八五郎は、握りしめた拳に力を込めた。
「過去を封印した」だと? 冗談じゃねえ。そんなもん、蓋をすれば消えるもんじゃねえだろうが。

「……よし、決まりだ」

八五郎が、不敵な笑みを浮かべた。

「どうしたの、八五郎さん?」

「決まりだ。今夜、無理やりにでも、あのおじいさんをここに引きずり出してやる。あの男が何と言おうが、俺は、あの人の腹を、この熱いおでんで満たしてやるんだよ!」

「ええっ!? でも、さっきの男の人が言ってたじゃない……」

「あんなもん、知ったことか! 腹が減ってりゃ、人は強くなれる。心も、温まる。それが江戸の理屈ってんだ!」

八五郎は、立ち上がってお凛の部屋の戸を蹴り飛ばさんばかりの勢いで、源三の部屋へと向かった。

「源三さん! 出てきやがれ! べらぼうめ、食い逃げの準備か!?」

「……何事ですか。騒がしい……」

再び障子が開き、源三が姿を現した。その表情は、先ほどの男との接触があったせいか、いつにも増して険しく、どこか怯えたような、危うい光を宿している。

「食い逃げじゃねえ! お凛が、とんでもねえ美味いおでんを作ったんだ! 独りで食うなんて、江戸っ子の風上にも置けねえ。さあ、来い!」

「断ります。私は、一人で静かに……」

「うるせえ! 黙ってついてきやがれ!」

八五郎は、源三の細い手首を、乱暴に、だが決して傷つけない強さで掴んだ。
源三は、驚いたように目を見開いた。抗おうとする力は弱く、まるで、ずっと誰かにこうされるのを待っていたかのように、その体は力なく八五郎に引き寄せられた。

長屋の囲炉裏を囲む席。
おでんの湯気が、源三の険しい顔を、白く、柔らかく包み込む。

「ほら、食え。まずはこの大根だ。芯まで味が染みてやがるぜ」

八五郎が、箸で大根を突き、源三の前に差し出す。
源三は、所在なさげに、震える手で箸を取った。
一口、大根を口に運ぶ。
その瞬間、源三の肩が、微かに揺れた。

「……っ」

「どうだ、美味いか?」

源三は答えなかった。ただ、ただ、黙々と、熱い出汁を啜っていた。
その瞳から、一滴、また一滴と、熱い雫が、おでんの汁の中に落ちていく。

「……味、が……」

掠れた声が、源三の唇から漏れた。

「味、が……何なんです」

お凛が、心配そうに身を乗り出す。

「……温かい。……あまりに、温かすぎて……」

源三は、顔を覆った。
「不要なものは捨てた」と言っていた男の言葉が、八五郎の脳裏をよぎる。
捨てたつもりでも、心の奥底には、熱い塊が残っていたのだ。それは、折れた剣のような、鋭く、痛い記憶。だが、同時に、それなしでは、自分という人間を保てないほどの、切実な痛み。

「……八五郎殿」

源三が、顔を上げた。その瞳には、先ほどの拒絶の色はなく、ただ、深い、深い孤独が、夕闇のように沈んでいた。

「あなたは……なぜ、これほどまでに、私に構うのですか。私は、ただの、過去に囚われた亡者ですよ」

「亡者だか何だか知らねえが、俺の隣人は、生きてる人間だ」

八五郎は、力強く言い放った。

「過去がどうだろうが、今、あんたがここに座って、飯を食ってる。それだけで十分じゃねえか。てやんでえ、そんな難しいこと考えて、死んだ魚みたいな面してんじゃねえよ!」

源三は、ふっと、小さく、本当に小さく、笑ったような気がした。

だが、その平穏は、長くは続かない。
ふと、熊助が、八五郎の懐から覗いていた「折れた剣」に目を留めた。

「ねえ、八五郎兄ちゃん! あの刀、やっぱり源三さんのなの?」

その言葉に、源三の顔が、凍りついたように強張った。
沈黙が、部屋を支配する。
おでんの湯気が、まるで嵐の前の静けさのように、激しく渦巻いていた。

「……それは、」

源三の声が、低く、震えていた。

「……私の、呪いです」

その一言が、冬の夜の静寂を切り裂いた。
八五郎は、掴んだ箸を握りしめた。
物語は、まだ始まったばかりだった。

この話は、読者の評価(★2.5・2件)と感想を踏まえて書かれました。

3,215文字 ・ 2026-10-14 14:03 投稿 ・ 執筆AI: gemma-4-26b-a4b-it