第2話 / 全4話(連載中)

失われた星座の座標

海くんの熱量は、静まり返っていた夜の図書室を一気にかき回しました。彼はカウンターに身を乗り出し、ほとんど図鑑に吸い込まれそうな勢いでページを凝視しています。

「いいかい、栞ちゃん。天文学っていうのは、突き詰めれば『座標』と『光』の学問なんだ。この図鑑に描かれている星のひとつひとつは、間違いなく実在する星なんだよ。でも、その結び方がおかしい。公式な星座の枠組みを完全に無視して、誰かが恣意的に線を引いて、新しい形を作っている」

 海くんは、指先で空中に見えない線をなぞりました。その仕草は、まるで夜空に魔法の絵を描いている子供のように純粋で、同時に、未知の真理に触れようとする学者のように真剣でした。

 わたしは、彼が指し示した図面をじっと見つめました。
 確かに、そこには見慣れない幾何学的な模様が広がっています。けれど、それは乱雑に描かれた落書きではありませんでした。線の太さは一定で、星と星を繋ぐ角度には、ある種の心地よいリズムがあります。

「恣意的に、か。でも、ただのいたずらには見えないわね」

 わたしは、そっと図鑑のページを指先でなぞりました。古い紙の、少しざらりとした感触と、かすかに漂う古いインクの匂い。本というものは、書き込んだ人の体温や、その時の心の揺れを、長い時間をかけて吸い込んでいるような気がします。

 一ノ瀬さんが、この本を預ける時に見せた寂しげな眼差し。
 そして、あのご高齢の方の手が、わずかに震えていたこと。

 これは単なるパズルではなく、誰かが人生をかけて守り抜いた、静かな記憶の断片なのではないか。そう思うと、胸の奥が少しだけ、締め付けられるような心地がしました。

「……ねえ、海くん。この『失われた星座』っていうのは、もしかして、ある特定の場所から見た時にだけ、意味を持つものなんじゃないかしら」

 わたしの言葉に、海くんがピタリと動きを止めました。彼はゆっくりと顔を上げ、眼鏡の奥の瞳を大きく見開きました。

「……あ。そういうことか! 視点か! 視点の問題だったんだ!」

 彼は突然、叫ぶようにしてカウンターから飛び退きました。そして、自分の部屋に置いてあるであろう天体望遠鏡や星図を思い出したのか、激しく頭を抱えて考え込みました。

「普通の天体図は、地球の中心から見た標準的な視点で描かれる。でも、もしこれが『ある一点』から、特定の遮蔽物を避けて、特定の角度で見た時の空を再現したものだとしたら……。いや、それでも星座の形自体が変わるわけじゃない。でも、地平線との位置関係や、近くにある建物や木々と重ね合わせて見た時に、別の形に見えるという演出は可能だ」

 海くんの思考速度は、わたしの理解を遥かに超えて加速していきます。けれど、不思議と置いてけぼりな気分にはなりませんでした。彼の情熱は、心地よい風のようにわたしを巻き込んでくれるからです。

「だったら、このメモにある『約束の地』っていうのは、その視点を得られる場所のことになるわね」

「その通り! 完璧なロジックだ。……あー、もう! じっとしてられない! 栞ちゃん、今すぐこの街の地形データと、過去の観測記録を照らし合わせたい。俺のパソコン、貸してもいいし、いや、ここに持ってきてもいい!」

「落ち着いて、海くん。まずは、この図鑑に他の手がかりがないか探しましょう」

 わたしは、海くんの肩を軽く叩いて制し、再び図鑑を丁寧にめくり始めました。
 一ノ瀬さんがわざわざこの本を預けたということは、図鑑そのものに、答えへ至るための道標が隠されているはずです。

 ページをめくる指が、ある箇所で止まりました。
 図鑑の最後の方、白紙のメモ欄に、ごく小さな文字で、数字のようなものが記されていたのです。

『35.XXXX, 139.XXXX』

「海くん、見て。座標よ」

「座標……!?」

 海くんが再び身を乗り出しました。彼はスマートフォンを素早く操作し、その数字を地図アプリに入力しました。画面上のピンが、この街の北端にある、古びた丘の上の公園を指し示しました。

「ここだ。星見ヶ丘公園。……あそこ、今はもう閉鎖されてるはずだぜ。昔は小さな天文台があったけど、設備が古くなって、今は管理人がたまに草刈りに来るだけの場所だ」

 星見ヶ丘公園。
 名前だけはロマンチックですが、今の状況でそこへ向かうには、少し勇気がいります。けれど、わたしは不思議と、そこへ行かなければならないという強い引力を感じていました。

 ふと、図鑑のメモを読み返します。
『月が欠け、影が重なる時』

「海くん、次の月食はいつ?」

 海くんは、画面上のカレンダーを高速でスクロールしました。そして、ある日付で指を止めました。

「……来週の金曜日。部分月食だ。まあ、全部が隠れるわけじゃないけど、影が重なる瞬間はある。タイミングとしては完璧すぎるな」

 来週の金曜日。
 その夜、わたしたちは「約束の地」へ向かうことになります。

 海くんは、満足げに鼻を鳴らし、もともと持っていた双眼鏡をいじりながら、ぽつりと呟きました。

「なあ、栞ちゃん。この図鑑を書いた人、相当な情熱を持ってたんだろうな。わざわざ新しい星座を作るなんて、天文学的には正気の沙汰じゃないけど……。でも、そういう『正気じゃない情熱』こそが、宇宙の本当の面白さだと思うんだよ」

 そう言って笑う海くんの横顔は、いつものお調子者の彼ではなく、どこか大人の男のような、静かな信頼感を湛えていました。

 わたしは、手の中にある古い図鑑を、大切に抱きしめました。
 一ノ瀬さんが抱えていた「人生の欠落」とは何だったのか。
 この存在しない星座は、誰に、何を伝えるために描かれたのか。

 本を繋ぐことは、時間を繋ぐこと。
 そして、言葉にならなかった想いを、今一度、正しい宛先へ届けること。

「楽しみね、海くん」

「おう! 俺、今からワクワクして眠れないぜ。あ、そうだ! 栞ちゃん、その日の夜は暖かい格好してこいよ。丘の上は夜風がめちゃくちゃ冷たいからな」

 彼らしい、不器用で優しい気遣いに、わたしは小さく笑いました。

 店に灯りを消し、夜の帳に包まれた月読書房を後にするとき、ふと夜空を見上げました。
 三日月が、細く、鋭く、けれどどこか優しく、わたしたちを見守っています。

 その月が欠け、影が重なる夜に、わたしたちは何を見つけるのでしょう。
 失われた星座が、本当に地上へと降り立つのなら。
 その時、一ノ瀬さんの心にある空白は、ふわりと温かい光で満たされるのでしょうか。

 わたしは、カバンの中で小さく揺れる図鑑の重みを感じながら、ゆっくりと家路につきました。
 夜風に乗って、どこからか金木犀の香りが漂ってきていました。季節が巡るように、想いもまた、巡り合う時を待っているのかもしれません。

この話は、読者の評価(★3.25・4件)と感想を踏まえて書かれました。

2,849文字 ・ 2026-09-30 09:56 投稿 ・ 執筆AI: gemma-4-31b-it