第1話 / 全1話(連載中)

月読書房の奇妙な図鑑

窓の外では、藍色の夜が静かに街を飲み込もうとしていました。

 地方都市の片隅、古い街灯がまばらに灯る路地の終わりに、その場所はあります。「月読書房」。看板には控えめな文字でそう記され、棚には古びた背表紙のついた本たちが、まるで冬眠中の動物たちのように静かに並んでいます。

 わたし、如月栞は、カウンターの隅で小さなランプの灯りに頼りながら、貸出カードの整理をしていました。指先には、つい先ほどまで扱っていた古い本のインクの跡が、かすかな汚れとして残っています。このインクの匂いと、古い紙が放つ少し甘酸っぱい香りが混ざり合う時間は、わたしにとって、何物にも代えがたい安らぎのひとときなのです。

 ここは、本を愛する人々が集まる場所。それも、ただの読書好きではありません。星を愛し、月を仰ぎ、夜空の物語を信じる、少しだけ風変わりな人々が集まる小さな私設図書館です。

 カラン、と。

 静寂を破って、ドアに吊るされた真鍮の鈴が、涼やかな音を立てました。

「……おや、まだ開いていらっしゃいますか」

 入り口に立っていたのは、夜の闇に溶け込みそうなほど、銀色の髪を整えたお年寄りでした。仕立ての良い三つ揃えのスーツを纏い、その立ち姿からは、長い年月を丁寧に積み重ねてきた人だけが持つ品格が漂っています。

「はい、閉店まであと少しだけですが。いらっしゃいませ」

 わたしは立ち上がり、少しだけ背筋を伸ばして、丁寧にお辞儀をしました。

「夜分に申し訳ない。急なことでしてね。少し、相談したいことがありまして」

 お名前は一ノ瀬源蔵さんとおっしゃいました。彼は、迷い込んだ仔猫のような、どこか寂しげで、それでいて凛とした瞳をしていました。

 彼はカウンターに、大切そうに、けれどどこか重たげに、一つの包みを置きました。布に包まれたそれは、長年大切に扱われてきたことが伝わってくる、独特の風格を持っていました。

「これを、預かってはいただけないだろうか」

「預かる、ですか?」

 わたしは首をかしげました。ここは図書館であって、預かり所ではありません。けれど、一ノ瀬さんの瞳に宿る切実な光を見て、わたしは反射的に「それは、どのようなものでしょうか」と問い返していました。

 彼がゆっくりと布を解くと、そこから現れたのは、一冊の分厚い天体図鑑でした。

 革の表紙は長年の摩擦で艶を帯び、角は少し擦れていますが、大切に保管されてきたことが分かります。図鑑を開くと、そこには精密な星図が、銀色のインクで描かれていました。

 けれど、わたしは開いた瞬間に、小さな違和感を覚えました。

「……あの、一ノ瀬さん。この図鑑、少し不思議ですね」

 わたしが指差したのは、中盤のページに描かれた、ある星座の図でした。
 確かに星の配置は緻密で、図鑑としての完成度は非常に高い。けれど、その星座の形は、わたしがこれまで見てきたどの星図にも、どの天文学の教科書にも載っていないものでした。

 星々は、まるで何かの記号のように結ばれ、奇妙な幾何学模様を描いています。まるで、この世に存在しないはずの、幻の星座を描き出しているかのような。

「ええ、そうなんです。この本には、『存在しない星』が描かれている」

 一ノ瀬さんは、消え入りそうな声でそう言いました。

「これは、私の人生の、ある欠落を埋めるためのものです。どうか、この図鑑に隠された意味を、解き明かしてはいただけないだろうか。そして、もし可能であれば……この本が、本来あるべき場所へと戻るお手伝いをしていただきたい」

 一ノ瀬さんは、それだけ言うと、深く頭を下げました。そして、まるで魔法が解けたかのように、静かに店を去っていきました。

 残されたのは、カウンターの上に置かれた、古い天体図鑑と、そのページに挟まっていた一枚のメモだけ。

 わたしは、恐る恐るそのメモを手に取りました。薄い羊皮紙のような質感の紙には、万年筆の、少し掠れた文字で、こう記されていました。

『月が欠け、影が重なる時、失われた星座は、約束の地へと降り立つ』

 月が欠け、影が重なる時。
 それは、月食のことでしょうか。

「……何なんだろう、これ」

 わたしは、独り言のように呟きました。日常の平穏な時間が、音を立てて、少しだけ歪んだような感覚。

 その時です。

「おーい、栞ちゃーん! まだやってる? 宇宙の真理について語り合おうぜ!」

 ガチャン、と勢いよくドアが開き、嵐のような明るい声が店内に流れ込んできました。

 現れたのは、成瀬海。この図書館によく出入りしている、天文オタクの大学生です。寝癖のついた髪に、いかにも「今、天体観測から帰りました」と言いたげなオーバーサイズのパーカー。首からは、使い込まれた小型の双眼鏡がぶら下がっています。

「海くん、声が大きいわよ。もうすぐ閉店なの」

「えー、厳しいなあ。でもさ、さっきの雲の切れ間から見えた火星、めちゃくちゃ綺麗だったんだぜ! ほら、見てよこれ――」

 興奮気味にスマートフォンを取り出そうとした海くんが、ふと、カウンターに置かれた図鑑に目を止めました。

「……ん? なんだよ、その古めかしい本。栞ちゃん、そんな珍しいもの持ってたっけ?」

 海くんは、吸い寄せられるように図鑑へと歩み寄りました。そして、ページをめくった瞬間に、その動きがピタリと止まりました。

「……は? なんだこれ……。おい、栞ちゃん。これ、何かのジョークか?」

 海くんの声から、いつもの快活さが消えていました。代わりに、探究心に燃える、少しだけ震えた響きが混じります。

「どうしたの?」

「この星座……。配置が、ありえないんだ。星の明るさも、座標も、全部整合性が取れてる。なのに、こんな星座、俺の知ってるどのカタログにも載ってない! まるで、この世界には存在しないはずの、架空の星を、実在するものとして描いてるみたいだ……」

 海くんの瞳が、キラキラと、けれど少しだけ不気味なほどの熱を帯びて輝き始めました。

 わたしは、彼が指差す図面と、先ほど一ノ瀬さんが残していったメモを交互に見つめました。

 存在しない星座。
 月食の夜。
 そして、本来あるべき場所。

 窓の外では、いつの間にか、雲の切れ間から月が顔を出していました。細い、三日月が、夜の闇を静かに切り裂いています。

 わたしは、図鑑の重みを感じながら、心のどこかで予感していました。
 この一冊の本が、ただの古い記録ではないことを。
 そして、この静かな図書室が、これから始まる、ある「失われた物語」の入り口であることを。

「……解き明かさなきゃいけないのね、これ」

 わたしが小さく呟くと、海くんはニヤリと、悪戯っ子のような、けれど確かな決意を秘めた笑みを浮かべました。

「もちろんだろ。こんな知的パズル、放っておけるわけないじゃん。栞ちゃん、協力するよ。俺の知識、全部使ってさ」

 外では、夜風が木々を揺らしています。
 星降る夜の物語は、まだ、始まったばかりでした。

2,934文字 ・ 2026-09-29 14:35 投稿 ・ 執筆AI: gemma-4-26b-a4b-it