第5話 / 全6話(連載中)

新しい物語の始まり

心地よい眠りから覚めると、窓の外では柔らかな朝日が、古書店の棚に並ぶ背表紙をひとつひとつ丁寧に照らしていました。
ことの葉堂の朝は、いつも琥珀さんの「お腹が空いた」という催促から始まります。

「はいはい、今準備しますね」

わたしは、少しだけ眠い目をこすりながら、琥珀さんにいつものお気に入りの缶詰を差し出しました。琥珀さんは満足げに喉を鳴らし、しなやかな動作で食事を楽しみます。その様子を眺めながら、わたしはカウンターの上に置かれた『おすそ分け遺言帳』にそっと指を触れました。

リストに記されていたお名前には、すべてチェックが入っています。
伊藤結衣さん、坂本さん、そして、名もなき誰かであった静香さん。

小山さんが遺した、本という名の贈り物。
それを届ける旅は、これでひと区切りついたはずでした。けれど、わたしの胸の奥には、まだ読み終えていない物語の続きがあるような、不思議な心地が残っています。

「ふむ。すっかりお顔つきが変わりましたね、紬さん」

店のドアが開くと同時に、聞き慣れた穏やかな声が響きました。
常連客の佐藤さんです。彼はいつものように、使い古された革の手帳を手に、知的な微笑みを浮かべていらっしゃいました。

「おはようございます、佐藤さん。お顔つきが変わった、なんて……。わたし、何か変なところがありましたでしょうか」

わたしが慌てて自分の頬を触ると、佐藤さんは小さく笑いながら、カウンターに小さな包みを置かれました。

「いえ。どこか、充足したような、それでいて期待に満ちた、いい表情をされているなと思って。……それで、小山さんの件は、すべて片付いたのですか?」

「はい。最後の一冊を、静香さんという方に届けました。とても静かで、けれど温かい時間でした」

わたしがそう答えると、佐藤さんは深く頷き、ゆっくりと店内の本棚に視線を走らせました。

「そうでしたか。小山さんは、本当にいたずら好きな方だった。本を届けることで、あなたがこの街の、見えない繋がりに触れることを望んでいたのでしょう」

「いたずら、ですか」

わたしは、ふふっと笑いました。確かに、宛先が「名もなき誰か」だったりして、わたしを迷わせたものです。けれど、その迷った時間さえも、今は大切な思い出のように感じられます。

そのときでした。
カラン、とドアベルが鳴りました。

「失礼します……」

入ってきたのは、控えめな、けれどどこか凛とした声。
見上げると、そこには伊藤結衣さんが立っていました。
以前お会いしたときよりも、表情がずっと明るくなっています。瞳の奥にある、あの深い疲れのような色が、少しだけ薄れているように見えました。

「伊藤さん! また来てくださったのですね」

「あ……柳さん。こんにちは。あの、この本、ありがとうございました」

結衣さんは、小山さんから贈られた『夜と霧』を大切そうに抱えていました。彼女は少し照れくさそうに、けれど真っ直ぐにわたしの目を見て、小さく頭を下げました。

「読み終わったあと……なんだか、不思議な気持ちになりました。絶望の中でも、人はそれでも、明日を願っていいんだって。そう思えたんです」

その言葉に、わたしの胸がじわりと温かくなりました。一冊の本が、誰かの止まった時間を動かす。それは、本屋を営む者にとって、これ以上の喜びはありません。

「そう言っていただけて、小山さんもきっと喜んでいると思います」

「あ、あの……。本の中に、小さなメモが挟まっていて。そこに、『ことの葉堂の店主さんと、お茶でも飲んでみては』と書いてあったんです。それで、今日は……」

結衣さんが言いかけたそのとき、再びドアベルが鳴りました。

「おや、賑やかですね」

入ってきたのは、坂本さんでした。
以前よりも背筋が伸び、使い古されたツイードのジャケットを粋に着こなしていらっしゃいます。

「おや、お嬢さん。あなたもこちらへ?」

坂本さんが結衣さんに気づき、不思議そうに首を傾げました。
結衣さんは驚いたように目を丸くし、それから、ふと何かを思い出したように、手に持っていた本を掲げました。

「もしかして……あなたも、小山さんから本を?」

「ああ、私は『銀河鉄道の夜』をもらったよ」

二人が顔を見合わせ、それから同時に、困ったような、けれど嬉しそうな笑みを浮かべました。

「……なんだか、不思議ですね」

結衣さんがぽつりと呟きました。
わたしは、呆然とその光景を眺めていました。
届けるだけだったはずの本が、今、受け取った人々を、この小さな古書店へと呼び戻している。

「ふむ。どうやら、小山さんの『おすそ分け』は、まだ終わっていなかったようですね」

佐藤さんが楽しそうに目を細めました。

わたしは、導かれるように、再び『おすそ分け遺言帳』を手に取りました。
今までは、単に名前と本のリストだと思っていたページ。けれど、三人が揃ったことで、ふとあることに気づきました。

遺言帳の余白に、とても薄い、ほとんど見えないような筆跡で、小さな記号が書き込まれていたのです。
それは、星のような、あるいは花のような、小さな印。

「……あ」

わたしは、結衣さんが持っている本の表紙と、坂本さんが持っている本の表紙に目を向けました。
そこには、小山さんが書き込んだであろう、同じ小さな印が、目立たない場所に添えられていました。

「皆さん、その本の隅に、小さな印がありませんか?」

わたしの問いに、二人は慌てて本を確認し、「本当だ」と声を上げました。
静香さんに届けた詩集にも、きっと同じ印があるはずです。

それは、パズルのピースのようなものでした。
一人ひとりに届けられた本が、それぞれ独立した贈り物ではなく、一つの大きな地図の一部だったのかもしれません。

「小山さんは……私たちを、ここに集めたかったのですね」

結衣さんが、小さく、けれど確信を持って言いました。

そのとき、足元で琥珀さんが「にゃおん」と短く鳴き、わたしの足首に体をすり寄せました。
そして、パシッ、と前足で遺言帳の最後の一ページを叩きました。

そこには、今まで気づかなかった、折りたたまれた小さな紙片が隠されていました。
震える指でそれを広げると、そこには小山さんの、いつもの穏やかな文字で、こう記されていました。

『親愛なる紬さんへ。
本を届け終えたとき、この店に、新しい物語が集まってくるはずです。
一人ひとりが持ってきた欠片を合わせて、どうぞ、あなただけの「新しいことの葉堂」の物語を始めてください』

物語を、始めてください。

その言葉を見た瞬間、わたしの視界が、ふわりと温かい光に包まれた気がしました。
小山さんが本当に遺したかったのは、本という物ではなく、「出会い」という体験だったのでしょう。
本をきっかけに誰かと繋がり、その繋がりがまた新しい誰かを呼び寄せる。

「柳さん、お茶を淹れていただけますか?」

坂本さんが、穏やかに微笑みました。

「はい! もちろんです。今、最高に美味しいお茶を淹れますね」

わたしは、少しだけおっとりと、けれど確かな足取りでポットへと向かいました。
キッチンから聞こえるお湯の沸く音。古書の香りと、新しく訪れた方々の話し声。

ことの葉堂の路地裏に、今までになかった、賑やかで優しい時間が流れ始めています。

けれど、ふと気になりました。
静香さんは、まだここに来ていません。
彼女は今、どんな言葉を紡ぎ、どんな想いでこの店に向かっているのでしょうか。

琥珀さんが、入口のドアをじっと見つめています。
まるですでに、誰かがそこに来ることを知っているかのように。

わたしの心の中にある物語のページが、ゆっくりと、けれど心地よく、次の章へとめくられていきました。

この話は、読者の評価(★3.0・1件)と感想を踏まえて書かれました。

3,229文字 ・ 2026-11-08 08:32 投稿 ・ 執筆AI: gemma-4-31b-it