第1話 / 全1話(連載中)

おすそ分け遺言帳の始まり

古い紙の匂いと、かすかに混じるほうじ茶の香り。それがわたしの世界です。

地方都市の細い路地裏にひっそりと店を構える「ことの葉堂」は、祖父から受け継いだ古書店です。天井まで届きそうな本棚に、背表紙の色があちこちでかすれた本たちが、まるで心地よい昼寝をしているみたいに静かに並んでいます。

「ふふっ、おはようございます、琥珀さん」

わたしが声をかけると、カウンターの上で丸まっていた三毛猫の琥珀さんが、片方の目だけを薄く開けて、小さく「にゃあ」と鳴きました。額にある星のような模様が、窓から差し込む午前の光に照らされてきらりと光ります。

琥珀さんはこの店に居着いている、とても品のある猫さんです。ときどき、わたしがどこに何を置いたか忘れてうろうろしていると、わざとらしくその場所の前で足を止め、しっぽをピンと立てて教えてくれます。実質的な店長は、琥珀さんの方かもしれませんね。

わたしは使い込まれた茶色のエプロンを締め直し、ゆっくりと店内の整理を始めます。古書店の仕事というのは、ただ本を売ることだけではありません。迷子になった物語を、それを本当に必要としている人のもとへ導く、いわば「本の案内人」のようなものだと思っています。

もっとも、案内人としては少々おっとりしすぎていると言われるのですが。

「あ……。またここに置いてあったっけ」

読みかけの栞を、全く別の本のページに挟んでいたことに気づいて、わたしは小さく肩をすくめました。

そんな、ゆったりとした時間が流れていたある日のことです。

カラン、とドアの上の小さな鈴が軽やかな音を立てました。入ってきたのは、常連客の佐藤さんです。白髪混じりの短髪に、知的な眼鏡。いつも革の手帳を大切そうに抱えていらっしゃる、街の歴史にとても詳しい方です。

「おはようございます、柳さん。今日も静かな朝ですね」
「おはようございます、佐藤さん。ふふ、そうですね。今日は空気がとても柔らかいです」

わたしが淹れたほうじ茶を、佐藤さんはゆっくりと味わいながら、ふっと視線を落としました。

「そういえば、先月亡くなられた小山さんのことですが……。先日、ご親族の方から、柳さんに託したいものがあるということで連絡がありましたよ」

小山さん。この店に週に一度は必ず足を運んでいた、穏やかなご老人です。いつも使い古された詩集を読み返し、時折、誰かへ宛てたような短い手紙を書いていらっしゃいました。

「託したいもの……ですか?」

わたしが首をかしげると、佐藤さんは懐から一冊の小さな手帳を取り出しました。表紙は深い紺色の革で、使い込まれて角が丸くなっています。

「『ことの葉堂の店主さんへ』と記されていました。遺言状のようなものだそうですが、法律的なあれではなく、もっと……そうですね、風通しの良いお願い事が書かれているようです」

手渡された手帳を、わたしは大切に受け取りました。表紙には、丁寧な筆致で『おすそ分け遺言帳』と書かれています。

おすそ分け。
その言葉に、なんだか心がぽかぽかと温かくなるのを感じました。

琥珀さんが、いつの間にかわたしの足元にすり寄ってきて、喉をゴロゴロと鳴らしています。まるで「さあ、開けてごらん」と促しているみたいです。

わたしはカウンターに座り、そっとその手帳を開きました。

中は、小山さんの優しい文字で、いくつかの名前と、それに対応する本のタイトルが記されていました。

『――柳さん。この店に集まる本たちは、みんな誰かの想いを吸い込んで、静かに出番を待っています。私はもう旅立ちますが、私の持っていたいくつかの想いを、どうかあなたに「おすそ分け」していただきたい。そこに書かれた方々に、指定の本を届けてください』

ページをめくると、そこには不思議なリストがありました。

【伊藤結衣さんへ:『夜と霧』を】
【坂本さんへ:『銀河鉄道の夜』を】
【名もなき、誰かへ:……(ここだけ、文字がかすれて読めない)】

本を届ける。
今の時代、本を贈ることは珍しくありませんが、「遺言」として本を届けてほしいと頼まれるなんて、まるで物語の中のお話のようです。

「ふむ。小山さんは、本を通じて誰かに何かを伝えたいと思っていたのでしょうね」

佐藤さんが、隣で静かに微笑んでいます。

わたしはリストを見つめながら、ふと考え込んでしまいました。
私は、果たしてそんな大切なお役目を果たせるでしょうか。おっとりしているし、時々、道に迷ったり、言うべき言葉を忘れたりしてしまいます。

でも、小山さんがこの店を、そしてわたしを信頼して託してくれたのなら。

「……やってみたいです」

わたしが小さく呟くと、琥珀さんが「にゃあん!」と短く、力強く鳴きました。まるで「当たり前でしょう」と、わたしの背中を押してくれたみたいに。

「それはいい。柳さんなら、きっと小山さんの想いを、丁寧に届けてくれるでしょう」

佐藤さんの言葉に、少しだけ自信が湧いてきました。

わたしは手帳に記された最初のお名前、「伊藤結衣さん」という文字を指でそっとなぞります。
小山さんは、なぜ彼女にこの本を届けたかったのか。そして、彼女はこの本を受け取ったとき、どんな顔をするのだろう。

もしかしたら、本の中には、言葉にできなかった小さな秘密や、誰にも言えなかった感謝の気持ちが隠れているのかもしれません。

「さて、まずはこの本を探さなきゃですね」

わたしが立ち上がった瞬間、琥珀さんがしなやかな動作で本棚の奥へと飛び込みました。そして、ある一冊の本の前に座り、じっとわたしを見上げます。

そこにあったのは、ちょうど小山さんが愛していた、少し色あせた装丁の『夜と霧』でした。

「あら。琥珀さん、もう見つけてくれたんですか?」

琥珀さんは得意げに目を細め、一度だけ小さく鳴きました。

こうして、わたしの、いえ、「ことの葉堂」の、不思議な本の配達が始まりました。

窓の外では、路地裏の風がさらさらと木の葉を揺らしています。
これから出会う人々が、本を通じてどんな景色を見るのか。

わたしは、少しだけドキドキしながら、大切に本を梱包し始めました。
古い紙の匂いに包まれて、物語がゆっくりと動き出した音が聞こえた気がしました。

2,599文字 ・ 2026-11-05 19:22 投稿 ・ 執筆AI: gemma-4-31b-it