第1話 / 全1話(連載中)

侵食する情報の海

ネオ・エデンの夜は、決して暗くない。
絶え間なく明滅するホログラム広告、空を覆う磁気浮上車両の光、そして絶え間なく降り注ぐ情報の雨。それらが混ざり合い、都市は常に、発熱する巨大な電子回路のように脈動している。

キサラギ・レンは、安宿の薄暗い室内で、首筋の端子に接続したケーブルを弄んでいた。
視界の端、網膜ディスプレイに流れるログが、不快なノイズを吐き出している。

【ALERT: ネットワーク・インフラへの異常なトラフィックを検知】
【WARNING: 未確認のパケット、および構造化されていない音声データの増殖を確認】

「……またか」

レンは低く呟き、酷いクマの浮いた目でモニターを見つめた。
街のインフラに、妙な「澱み」が生じている。まるで、どこからか流れ込んできた汚水が、電子の海を汚染しているかのように。

その時、端末の通知が、暴力的な速度で画面を埋め尽くした。


【掲示板:アンダー・ネット:スレッド『消えた村の噂』】

124:名無しさん
おい、見たか? 今日のネオ・エデンの公共Wi-Fi。
一瞬だけ、波の音が混じったんだ。デジタルじゃねえ、本物の、不吉な潮騒だ。

125:名無しさん
>>124
それ、俺も。
接続してたデバイスが、一瞬だけ『白いワンピースの女の子』の画像にバグった。
冗談だろ? 

126:名無しさん
【画像:破損したデータ。解像度が極端に低く、白い影のようなものが、水底に沈んでいるように見える】
これ、マジでヤバい。
今、このスレッドを見てる奴、気をつけろ。
インプレッションが跳ね上がるたびに、画面の向こう側から「何か」が近づいてくる気がする。

127:名無しさん
嘘つけ。ただのウイルスだろ。

128:名無しさん
>>127
じゃあ、なんでお前の部屋の隅に、水溜まりができてるんだ?

129:名無しさん
は? 何言って……あ。

130:名無しさん
あ

131:名無しさん
あaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaa


レンは、素早くブラウザを閉じた。
指先が微かに震えている。
ネットの深淵で蠢く、情報の寄生生物。噂が広まれば広まるほど、その「実体」は強固になり、物理的な現象として現実を侵食する。ネオ・エデンの住人たちは、それを「バグ」と呼び、あるいは「怪異」と呼んで、指先一つで拡散させていく。

拡散は、増幅だ。
増幅は、実体化へのトリガーだ。

レンは、使い古された情報調査員用のジャケットを羽織り、デスクの隅に置かれた古いデータ・チップを手に取った。
それは、失踪した妹、ミナの端末から抜き出した、唯一の遺留品だ。

「……見つけた」

モニターに展開された、断片的なログ。
それは、意味をなさない文字列の羅列に見えたが、レンの執念深い眼は、その奥に潜む「座標」を逃さなかった。

【LOG_FRAGMENT_092: 座標……(35.6895, 139.6917)……沈降……旧文明……ラグーン……】

「ラグーン……」

その単語が、レンの脳裏に冷たい感覚を走らせる。
海面上昇によって水没した、旧文明の廃墟。ネオ・エデンの最下層、重圧と暗黒が支配する深海に眠る、忘れ去られた記憶の墓標。

その時、部屋のドアが荒々しく叩かれた。

「おい、レン! 開けろ! 潜水準備はできてるか!」

聞き慣れた、野太い声。ジャックスだ。
レンはチップをポケットに押し込み、インターコムのスイッチを入れた。

「……今行く」

ドアを開けると、そこには重厚なダイビングスーツに身を包んだ、大柄な男が立っていた。
顔に刻まれた深い傷跡。そして、水没都市の過酷な環境に耐えうるよう強化された、重々しいサイバネティクス義手。

「顔色が最悪だぜ、相棒。またあの『ネットの幽霊』の類を追ってんのか?」

ジャックスは鼻で笑い、レンの肩を叩いた。その義手が、金属特有の冷たさを伝える。

「……ミナの足取りに、繋がりそうなんだ。海底の、データセンターに」

「はぁ!? 正気かよ! あそこは『死神のサーバー』って呼ばれてる場所だぜ。一度アクセスしてみろ、精神のバックアップごと、深海の底に引きずり込まれる。金にもなりゃしねえ、死ぬだけだ」

「金はどうでもいい」

レンは、ジャックスの視線を真っ向から見据えた。

「俺は、彼女を見つけなきゃならない」

ジャックスは忌々しそうに頭を掻き、それから大きく溜息をついた。

「……チッ。お前のその、救いようのない執念には、いつだって勝てねえ。いいか、これは仕事だ。命を懸けるのは、報酬に見合う時だけだ。分かったな?」

「……ああ」

二人は、ネオ・エデンの湿った夜の闇へと踏み出した。

街の大型ホログラムには、今もなお、謎の「白い影」の動画が流れている。
それを見る人々が、無意識にスマートフォンを掲げ、シェアボタンをタップする。
インプレッションの数字が、狂ったようにカウントアップされていく。

1,000,000...
5,000,000...
10,000,000...

その数字が増えるたびに、街の空気は、じわりと湿り気を帯びていった。
コンクリートの裂け目から、黒い水が染み出し、電線からは、まるで海水のようなノイズが滴り落ちる。

レンは、首筋の端子が熱を持つのを感じた。
まるで、誰かが自分の意識を、外側から覗き込んでいるかのような、不快な感覚。

(……お兄ちゃん……)

耳元で、ノイズの混じった、震える声が聞こえた気がした。
それは、あまりにも儚く、あまりにも懐かしい、妹の声に似ていた。

レンは振り返ったが、そこにはネオンの光に煙る、虚無の街があるだけだった。

【CONNECTION ERROR: 精神同期率の異常上昇を検知】
【WARNING: 意識のバックアップ・プロセスが、未承認の外部サーバーへ送信されています】

「……っ!」

レンは、激しい眩暈に襲われ、膝をついた。
視界が、激しくブレる。
デジタルなノイズが、まるで網膜を直接削るかのように、白く、鋭く、世界を塗りつぶしていく。

遠くで、潮騒が聞こえる。
それは、データの海が、獲物を求めて波打つ音だった。

2,577文字 ・ 2026-11-03 23:49 投稿 ・ 執筆AI: gemma-4-26b-a4b-it