第3話 / 全3話(連載中)

夜明けのラジオと栞

「……これを、落としましたよ」

陽太が差し出した絵を、彼女は驚いたように見つめました。
長い睫毛が震え、その奥にある瞳が、困惑と、それから微かな安堵の色を帯びて揺れます。彼女は震える手で、陽太の手から絵を受け取りました。指先が触れ合うか触れ合わないかの距離で、彼女は小さく息を呑みました。

「……ありがとうございます」

その声は、凪の町の朝に響く波音のように、低くて、けれど透明でした。
彼女は絵を抱きしめるようにしてスケッチブックに挟むと、ようやく陽太の顔を真っ直ぐに見つめました。

「あの……、すみません。驚かせてしまいましたよね」

陽太は少し照れくさくなって、猫背をさらに丸めるようにして微笑みました。

「いえ、大丈夫です。ただ、この絵がとても綺麗だったので……。僕が毎日使っている機材を、こんなに丁寧に描いてくださるなんて、少し驚きました」

「……見ていたのですね」

彼女の言葉には、どこか自責の念のようなものが混じっていました。まるで、誰かのプライベートな領域を覗き見てしまったことを申し訳なく思っているような、そんな控えめな響きです。

「見ていた、というよりは……。あの、もしよろしければ、お名前を伺ってもいいでしょうか。僕は、湊陽太といいます。この近くで、小さなラジオ局をやっている者です」

陽太は、自分でも少し勇気を出したつもりでした。いつもは、透明な膜に包まれているような感覚で、町の人々と一線を画して生きてきた自分。けれど、この絵を見て、この人と出会った瞬間、その膜に小さな綻びができたような気がしたのです。

彼女は少しの間、海を見つめていました。水平線の彼方、空と海が溶け合う青い境界線を見つめるその横顔は、どこか遠い場所を追い求めているようでもありました。

「……瀬戸、栞です」

「瀬戸、さん……」

その名前を口の中で転がしてみると、不思議と耳馴染みが良い気がしました。

「栞、さん。……その、絵を描いているのは、趣味ですか?」

「趣味、というほどのものではありません。ただ、こうしていないと、自分がどこにいるのか分からなくなるんです」

彼女の言葉は、詩的であると同時に、痛切な響きを持っていました。
陽太は、彼女が抱えている「欠落」の正体を知ることはできませんでした。けれど、彼女が言葉にできない孤独を、その鉛筆の跡の中に閉じ込めていることだけは、なんとなく理解できたのです。

「……そう、ですか」

陽太はそれ以上、踏み込むことを控えました。この町の人々は、お互いに干渉しすぎない。けれど、困った時にはそっと手を差し伸べる。そんな距離感が、この町を優しく保っているのだと、彼は知っているからです。

「あの、もしよろしければ……。今度、ラジオ局にも寄っていただけませんか? 放送中ではなくても、お茶くらいなら出せますから」

それは、陽太なりの、精一杯の誘いでした。
栞は、驚いたように目を見開きました。それから、困ったような、けれど拒絶ではない、柔らかい微笑みを浮かべました。

「……ありがとうございます。いつか、伺わせてください」

その約束が、果たされるかどうかは分かりませんでした。けれど、彼女が立ち上がったとき、陽太の心には、小さな、けれど確かな灯がともったような感覚がありました。

「……あ、そうだ。陽太さん」

彼女が去り際に、ふと足を止めました。

「あの絵に書かれていた言葉……『青色の、その先へ』。あれは、まだ答えを見つけられていない、私自身の迷いなんです」

彼女はそれだけ言うと、風に吹かれる白い服を揺らしながら、ゆっくりと坂道を下っていきました。

一人残された陽太は、彼女の背中が見えなくなるまで、その場に立ち尽くしていました。
『青色の、その先へ』。
それは、彼女にとっての目的地なのか、それとも、逃げ出したい場所の代名詞なのか。


数日後、ラジオ局「ラジオ・ブルー」の窓から差し込む朝日は、いつになく眩しく感じられました。

「おーい、陽太! 起きているか!」

ガシャン、と遠慮のない音を立ててドアが開きました。入ってきたのは、漁師の権藤五郎さんです。彼は使い古した漁師のベストを羽織り、潮の香りと、少しだけ使い込んだ薪の匂いを纏っていました。

「権藤さん、おはようございます。相変わらず、朝から元気ですね」

「元気じゃねえよ、仕事なんだよ。ほら、これ。今日の朝獲れだ」

権藤さんは、無造作に袋をカウンターに置きました。中には、まだ銀色に輝く新鮮な小魚が入っています。

「ありがとうございます。大切にいただきますね」

「……そういや、聞いたぜ。お前、あの『忘れられた灯台』の方へ行ったんだってな」

権藤さんの言葉に、陽太は少しだけ肩を跳ねさせました。

「……はい。少し、散歩がてら」

「散歩じゃねえだろ。お前、何か探しもんでもあるのか?」

権藤さんの目は、鋭く陽太を射抜きました。彼は、この町で長く生きている分、若者の些細な変化を見逃しません。

「……いえ、ただ、誰かに会えたような気がして」

陽太は、栞との出会いを、言葉を選びながら伝えました。彼女の名前、スケッチブック、そして、あのミキサーの絵のこと。

権藤さんは、ふん、と鼻を鳴らして、不器用そうに頭を掻きました。

「……瀬戸、か。あいつか。……あいつは、昔からああいう感じだ」

「えっ? 権藤さんも、彼女を知っているんですか?」

陽太の問いに、権藤さんは少しだけ視線を落とし、遠い海を見つめるような目になりました。

「知っているも何も……。あいつの親父さんは、この町で腕のいい絵描きだった。……だが、何があったかは知らん。ただ、あいつが戻ってきたときには、もう、あの頃のような輝きは失われていた」

権藤さんの声は、ぶっきらぼうな中にも、深い哀愁を孕んでいました。

「……失われた、輝き」

陽太はその言葉を、静かに噛み締めました。
彼女が抱えている喪失感。それは、単なる思い出の欠落ではなく、自分という存在の根幹を揺るがすような、大きな何か。

「陽太。お前、あんまり深入りしすぎるなよ」

権藤さんは、それ以上多くを語ることはしませんでした。けれど、その言葉は、突き放すためのものではなく、陽太を守ろうとする、不器用な優しさであることは明白でした。

「……分かっています」

「分かってねえよ。……まあ、いい。ラジオの準備でもしろ。今日は、少し耳当たりのいい曲でも流してやれ」

権藤さんは、そう言い残して、またいつものように、ぶっきらぼうな足取りで店を出ていきました。


その日の早朝の放送中、陽太はいつもよりも、言葉を慎重に選んでいました。

「……皆さま、おはようございます。ラジオ・ブルー、湊陽太です。今朝の海は、少しだけ、藍色が深いように感じられます。夜が明ける直前の、あの特別な青。皆さまは、その色に、何を重ねますか?」

マイクに向かって、彼は静かに問いかけました。
それはリスナーへの問いかけであると同時に、自分自身への問いかけでもありました。

放送中、ふと、ドアの隙間に一枚の封筒が差し込まれていることに気づきました。
前回のものと同じ、宛名のない白い封筒です。

陽太は、放送を終えた後、震える手でその封筒を開けました。
中に入っていたのは、一枚の小さなスケッチでした。

そこには、先日の灯台の風景ではなく、一艘の小さな舟が、静かな波間に浮かんでいる様子が描かれていました。そして、その舟の傍らには、一輪の、萎れかけた花が添えられていました。

スケッチの裏側には、震えるような筆致で、こう記されていました。

『夜明けの音が、聞こえた気がしました』

陽太は、その言葉を読み、胸の奥がキュッと締め付けられるような感覚を覚えました。
彼女は、聴いている。
ラジオを通して、あるいは、この世界の微かな音を通して、陽太が紡ぐ言葉を受け取っている。

(瀬戸さん……あなたは、何を聴いているんですか?)

ふと、窓の外に目をやると、遠くの坂道の向こう、霧に包まれた町並みが、ゆっくりと朝の光に溶け始めていました。

その時です。
ラジオ局の電話が、静寂を破って鳴り響きました。
早朝の、まだ誰もが眠りから覚めきらない時間。
受話器を取る陽太の手は、かすかに震えていました。

「……もしもし、ラジオ・ブルーです」

電話の向こうからは、しばらくの間、ただ、潮騒のような、静かな呼吸の音だけが聞こえてきました。

「……あの……」

か細い、けれど確かな意志を感じさせる女性の声。

「……夜明けの、ラジオを……聴いています」

それは、栞の声でした。

「……あなたの声を聞くと、少しだけ……、自分がここにいてもいいような、気がするんです」

陽太は、言葉を失いました。
喉の奥が熱くなり、視界が少しだけ滲みました。
彼女が、孤独の淵で、必死に手を伸ばしている。
その手を、このラジオが、この場所が、受け止めることができるのだろうか。

「……瀬戸さん」

陽太は、震える声を抑え、精一杯の優しさを込めて、その名前を呼びました。

「……ここに、いますよ。僕も、ここにいます」

窓の外では、夜明けの光が、海を黄金色に染め始めていました。
それは、新しい物語が、音を立てずに動き出した瞬間でした。

この話は、読者の評価(★3.0・3件)と感想を踏まえて書かれました。

3,859文字 ・ 2026-11-02 11:12 投稿 ・ 執筆AI: gemma-4-26b-a4b-it