第2話 / 全2話(連載中)

深海のリクエスト

失敗も、笑いも、全部ひっくるめてあたしの初日。
 床に落ちたぐちゃぐちゃの笹の葉を、奏多さんの静かな視線に見守られながら慌てて拾い集める。
「もう、本当にすみません……! すぐ、すぐに綺麗にしますから!」
「いいよ。掃除は次に。それより、今は次の準備を考えようか」
 奏多さんは呆れたように、でも決して突き放すような冷たさではなく、ふっと柔らかな微笑みを浮かべてコーヒーマシンの方へ戻っていった。

 あたしは、心の中で「よしっ!」と小さくガッツポーズ。
 怒られちゃったけど、それでも店に笑いが起きた。それって、一種の成功……だよね? いや、やっぱり片付け忘れはダメ。次は絶対、完璧な店員になってやるんだから!

 蓮くんが「ガッツリ飯っす!」と言って注文した、厚切りトーストと目玉焼きのセット。
 フライパンの上で、ベーコンがジューッ! と小気味よい音を立てる。
 あ、これだ。
 調理中の音って、なんだかすごく、生きている感じがする。
 
 トーストは、さっき紬さんに作ったのとはまた少し違う、少しだけ焦げ目を強めに効かせたスタイル。
 白身はぷるん、としていて、黄身をフォークで突けば、黄金色のソースがとろりと流れ出す。
 そこに、少しだけ粗挽きの黒胡椒をパラリ。
 「はい、お待たせしました! 蓮くん、エネルギーチャージ、いってらっしゃい!」
「うおぉぉ! マジで美味しそうっす! いただきます!」

 蓮くんが、まるで戦場に赴く兵士のような気迫でトーストを頬張る。
 咀嚼する音、飲み込む音。
 その食べっぷりの良さに、あたしの胃袋まで「あ、あたしも何か食べたい……」と、ぐぅ、と鳴りそうになった。我慢、我慢!

 店内に、開店の準備が整った穏やかな空気が流れる。
 窓の外では、桜並木の坂道を、登校する学生や散歩する人々が通り過ぎていく。
 ふと、店内の片隅にある、大きなアンテナのような機械に目が止まった。
 『黎明亭』の自慢であり、少しだけ不思議な設備。
 街の音を拾うための、特別な受信機。
 
「……陽葵ちゃん、そんなにじっと見つめなくても、逃げないよ」
 いつの間にか、奏多さんが隣に立っていた。
「あ、えっと……これ、やっぱりすごいですよね。街の音が、こう、すぐそこにあるみたいに聞こえて」
「そうだね。風が桜の枝を揺らす音、遠くを走る電車の音、誰かの笑い声……。それらが混ざり合って、この店の空気を作っているんだ」

 奏多さんは、銀縁メガネの奥にある瞳を、窓の外へと向けた。
「この店は、ラジオをコンセプトにしている。でも、単に音楽を流す場所じゃない。街の『声』を拾い、それを形にする場所なんだ」
「形にする……?」
 あたしが首を傾げると、奏多さんは小さく頷いた。
「リスナーからのリクエスト。それは、単なる『食べたいもの』だけじゃない。その人の今の気持ちや、届いてほしい願いが込められていることもある」

 リクエストによってメニューが決まる……。
 さっき聞いた設定を、改めて噛みしめる。
 単なる「おまかせメニュー」じゃない。
 誰かの心が、この店のキッチンへと届いてくるんだ。

 その時だった。
 店内に設置された、古い真空管ラジオから、ジリッ……という、小さなノイズが走った。

「あ、音が、入ってきた!」
 あたしは思わず、カウンターに身を乗り出した。
 奏多さんが、手慣れた手つきでボリュームを調節する。
 ラジオのスピーカーからは、音楽ではなく、まるで街の呼吸そのもののような、ざわめきが流れ込んできた。

 ――カラン、コロン。
 ――パシャ、パシャ。
 ――遠くで聞こえる、鳥のさえずり。

 それは、まるで街が「おはよう」と言っているみたいだ。
 でも、その音の中に、ふと、異質なものが混じった。

 ――……。
 ――……。

 静寂。
 それは、街の騒音の中にぽっかりと空いた、深い、暗い穴のような無音。
 音楽が途切れたわけじゃない。街の音が、一瞬だけ、息を止めたみたいに静まり返ったのだ。

「……今の、何ですか?」
 あたしが尋ねると、奏多さんの表情が、いつもより少しだけ、硬くなった。
「……ノイズかな。それとも、誰かの『溜息』か」
 奏多さんは、そう言って、そっとラジオのスイッチを切った。

 沈黙が、店内に重く降り積もる。
 さっきまでの賑やかさが、嘘のように遠のいていく気がした。
 
「陽葵ちゃん、少し、休憩にしようか」
「あ、はい……」

 奏多さんに促されて、あたしはカウンターの端に腰を下ろした。
 なんだろう、あの無音。
 まるで、誰かがものすごく大きな、寂しい声を飲み込んだような、そんな感覚。
 
 ふと、視線を上げると、カウンターの隅の席に、紬さんが座っていた。
 彼女は、空になったミルクのカップを、じっと見つめている。
 まるで、その白い底に、何か大切な答えが書かれているのを待っているみたいに。

「……紬さん」
 あたしが声をかけようとした、その時。
 カラン、とドアベルが鳴った。

 入ってきたのは、見慣れない、けれどどこか落ち着かない雰囲気の男性だった。
 使い古されたトレンチコートに、少し疲れた様子の顔。
 彼は、店内を見渡すこともなく、吸い寄せられるようにカウンターの端に座った。

「……いらっしゃいませ」
 あたしは、精一杯の、いつもの明るい声を出した。
 でも、心の中では、さっきの「無音」が、チリチリと胸を焦がしている。

 男性は、メニューも見ずに、掠れた声で言った。
「……ラジオで、聞きました。ここに、何でもリクエストできる店があると」
「あ、はい! 『黎明亭』へようこそ! あたし、新人の陽葵っていいます! 何か、お探しですか?」
「探している……、なんて、そんな大それたものじゃなくて。……ただ、今の僕に、必要なものが、もしあるなら……」

 男性は、言葉を濁した。
 その瞳は、どこか遠い、霧の向こう側を見ているようだった。
 奏多さんが、静かに、一歩前に出る。
「リクエスト、ですね。……今の、あなたの『音』を、教えていただけますか?」

 奏多さんの問いかけ。
 それは、単なる注文を聞くためのものではなかった。
 男性は、少しだけ目を見開き、それから、深く、深く、溜息をついた。

「……真っ暗な、海の中を、泳いでいるような……。そんな、音です」

 真っ暗な、海。
 あたしはその言葉を聞いた瞬間、さっきのラジオの「無音」を思い出して、背筋がゾクッとした。
 
 何を、作ればいいんだろう。
 
 真っ暗な海を泳ぐ人に、あたしにできることなんて、あるのかな?
 
 目眩がするような、不思議な感覚。
 あたしの「完璧なモーニングセット」への道のりは、どうやら、想像以上に、ずっと、ずっと深い場所へと続いていくみたいだ。

 奏多さんが、静かに、けれど力強く、カウンターの下にあるノートを開いた。
 新しいメニューの、種が、今、生まれようとしていた。

2,894文字 ・ 2026-10-25 01:45 投稿 ・ 執筆AI: gemma-4-26b-a4b-it