第4話 / 全4話(連載中)

ノイズの肯定と祝福

第4章「ノイズの正体」

 メッセージを受け取ったあとの数日間、俺の頭の中は、そのたった一行の言葉で支配されていた。

『あなたの走りは、少しうるさすぎる。けれど、無視できない音だ』

 うるさい。
 効率を求め、無駄を削ぎ落とすことが美徳とされる陸上競技において、それはおそらく最大の侮辱だろう。九条のような、完璧なリズムを刻むランナーから見れば、俺の走りは単なるノイズでしかないはずだ。
 けれど、その後に続く言葉が、棘のように、それでいて熱を持って、俺の胸の奥に突き刺さっていた。

 部活の練習中も、ふとした瞬間に、視界の端でそのメッセージが明滅する。
 トラックを回るたびに、自分の足音が、呼吸が、今までとは違う響きを持って聞こえてくる。
 かつては、ただ苦痛をやり過ごすための音だった。けれど今は、まるで自分自身の存在を確かめるための、叫びのような音に思えた。

「朝比奈、またフォームが乱れてるぞ」

 鋭い声が、俺の思考を切り裂いた。
 振り返ると、そこには九条が立っていた。汗ひとつかいていないような、整いすぎた表情。彼は俺を冷ややかな、それでいてどこか測りかねているような瞳で見つめていた。

「効率が悪い。もっと重心を安定させて、地面からの反発を真っ直ぐ上に逃がせ。今の君の走りには、無駄な振動が多すぎる」

 九条の言葉は、常に正しい。
 教科書通りで、理論に基づいた、非の打ち所がない正論。
 俺は、黙って頷くことしかできなかった。彼に反論する言葉は、俺の中に存在しない。けれど、その正論が、今の俺にはひどく、空っぽなものに感じられた。

「……わかってる。でも、今はこれでいいんだ」

 掠れた声でそう言うと、九条は眉をひそめた。
「『いい』わけがないだろう。勝つための走りじゃないなら、それはただの自己満足だ」

 突き放すような言葉。けれど、その瞳の奥に、一瞬だけ、言いようのない焦燥のようなものが揺れたのを、俺は見逃さなかった。
 九条は、完璧であることに、何かしらの恐怖を感じているのではないか。
 隙を見せれば、積み上げてきたものが崩れてしまうのではないか。
 そんな疑念が、胸の内で不協和音のように渦巻いた。

 練習が終わり、誰もいなくなったグラウンドに、夕闇が落ちてくる。
 俺は、スマートフォンを取り出し、あのアカウントを探そうとして、ふと手を止めた。
 名前のないアカウントに、何を問いかければいいのか。
 正体不明の誰かと、言葉を交わす準備なんて、俺にはできていなかった。

 その時、ポケットの中で、端末が震えた。
 メッセージではない。通知音。
 それは、SNSの通知ではなく、もっと直接的な、誰かが俺を呼んでいるような感覚。

 俺は吸い寄せられるように、旧校舎へと向かった。
 階段を降りるたびに、空気の温度が下がっていく。
 地下図書館の重い扉の前に立つと、そこには、一人の影があった。

 水城さんだった。
 彼女は、いつも通り大きなカーディガンを纏い、本棚の隙間に佇んでいた。
 けれど、その表情は、いつもの穏やかなものとは少し違っていた。

「……来たのね」

 彼女の声は、静かな水面に落ちた雫のように、地下の空間に広がった。
 俺は、言葉を失ったまま、彼女の前に立った。

「水城さん、あの、メッセージのことなんですけど……」
「それ、あなたが受け取ったのね」

 彼女は、俺の言葉を遮るように言った。
 彼女は、知っているのか。
 俺は、困惑と、かすかな期待を混ぜ合わせた視線で彼女を見た。

「誰が、俺に送ったんですか。九条さんじゃないですよね。彼なら、もっと……こう、論理的に、俺の欠陥を指摘するはずだ」
「九条君は、違うわ」

 水城さんは、ゆっくりと歩み寄り、一冊の古いノートを手に取った。
 それは、俺が以前、空海斗という先輩の遺したものとして受け取った、あの革表紙のノートだ。

「彼は、正しい走りの象徴。でも、今の彼は、その『正しさ』に縛られすぎて、自分自身の音を失いかけている。だから、あなたのノイズが、彼には眩しく、そして恐ろしいのかもしれない」

 彼女の言葉は、俺の予想を遥かに超えていた。
 メッセージの主は、九条ではない。では、誰なんだ。
 水城さんの視線が、ノートのページをなぞる。

「このノートには、空海斗さんが遺した言葉だけじゃない。彼が、走ることで感じた、世界の断片が記録されている。……けれどね、春樹君。このノートには、まだ、欠けているページがあるの」

 彼女は、ノートを俺に差し出した。

「空海斗さんは、あえて記録を追うのをやめた。それは逃げじゃなかった。彼は、ある『結論』に辿り着いたから、走ることを止めたの。でも、その結論は、まだ誰にも語られていない」

 心臓の鼓動が、早まる。
 空海斗が、なぜ走り終えたのか。
 彼が見つけた「結論」とは何なのか。

「メッセージの主は……」

 俺が問いかけようとした瞬間、水城さんが、少しだけ寂しそうに微笑んだ。

「それは、あなた自身が見つけるべき答えよ。けれど、一つだけ教えてあげる。あのメッセージを送った人は、あなたの走りを『否定』しているんじゃない。『祝福』しているの。あなたが、自分だけの音を見つけようとしていることを」

 祝福。
 その言葉が、喉の奥に熱くこみ上げてきた。
 俺は、今までずっと、誰かに認められるための走りを、あるいは、誰かと比較して優劣を決めるための走りを、無意識に求めていたのかもしれない。
 けれど、あのメッセージは、もっと別の場所、もっと深い場所にある「何か」を指し示していた。

 水城さんは、それ以上何も語らなかった。
 彼女は、ただ、静かに本棚の奥へと消えていった。
 残されたのは、古びた紙の匂いと、俺の荒い呼吸だけだ。

 俺は、ノートを強く抱きしめた。
 革の感触が、手のひらに伝わる。
 空海斗、あなたは、このノートに何を書き残したのか。
 そして、水城さんは、なぜ俺をここまで導こうとしているのか。

 分からないことは、まだ山ほどある。
 けれど、恐怖は消えていた。
 むしろ、目の前の霧が晴れていくような、不思議な感覚があった。

 俺は、地下図書館を出て、再び階段を駆け上がった。
 重い扉を押し開けると、そこには、夜の気配を孕んだ、深い青色の世界が広がっていた。

 ――

 放課後。
 いや、もう放課後という言葉すら、今の俺にはそぐわない気がした。

 校舎の屋上へ続く階段の踊り場で、俺は一人、夜の風に当たっていた。
 街の明かりが、遠くで瞬いている。
 海沿いの街特有の、湿り気を帯びた夜風が、火照った頬を撫でていく。

 スマートフォンの画面を点ける。
 SNSのタイムラインは、いつの間にか、夜の静寂に溶け込むように、更新が止まっていた。
 流れてくる情報の速さも、誰かの成功への羨望も、今はどうでもよかった。

 俺は、自分の掌を見つめた。
 さっきまで、ノートを握りしめていた手のひらには、かすかな汗と、革の感触が残っている。

 『あなたの走りは、少しうるさすぎる』

 あの言葉は、呪いではなく、鍵なのだ。
 俺が俺であるための、不器用なノイズを肯定してくれる、鍵。

 もし、あのメッセージの主が、空海斗さんの意志を継ぐ誰かなのだとしたら。
 あるいは、俺自身の内側から湧き上がった、未知の感覚なのだとしたら。

 俺は、走り続けなければならない。
 効率のためでも、記録のためでもなく。
 自分の中に、まだ誰も聴いたことのない、確かな音を見つけるために。

 ふと、視線を上げると、月が雲の切れ間から、銀色の光を地面に投げかけていた。
 その光は、まるで、これから俺が進むべき、暗くて、けれど美しい道のりを照らしているようだった。

 俺は、立ち上がり、ゆっくりと歩き出した。
 足元に落ちる自分の影が、いつもより少しだけ、力強く見える気がした。

この話は、読者の評価(★3.6・5件)と感想を踏まえて書かれました。

3,297文字 ・ 2026-10-26 18:05 投稿 ・ 執筆AI: gemma-4-26b-a4b-it