第2話 / 全3話(連載中)

海への決意と衝突

凪子さんの店「潮騒亭」の暖簾をくぐると、ふわりと甘酸っぱい香りが鼻先をくすぐった。

「あらあら、陽葵ちゃん! 海斗くんも。元気な顔して、夏休みを満喫してるみたいねぇ」

カウンターの向こうで、凪子さんがふにゃりと目尻を下げて笑う。色鮮やかな藍色の割烹着が、午後の柔らかな日差しを浴びてキラキラと輝いていた。

「凪子さーん! あたし、もうお腹ペコペコです! 今日のイチオシ、ありますか!?」

あたしがカウンターに身を乗り出して聞くと、凪子さんは「はいはい、わかってるわよ」と、いたずらっぽく片目を瞑った。

「今日はね、獲れたての真鯛のカルパッチョに、島特産の完熟マンゴーをたっぷり使った冷製パスタを作っておいたの。それから……デザートには、特製の『ソーダブルー・ゼリー』を用意してるわよ」

「ソーダブルー・ゼリー……!」

その響きだけで、あたしの胃袋が「早く持ってこい!」と全力疾走を始めた。海斗はといえば、相変わらずの無表情で「……お願いします」と短く、でもどこか礼儀正しく答えている。

運ばれてきた真鯛のカルパッチョは、まるで宝石箱みたいだった。透き通った身に、レモンとオリーブオイルの香りが踊る。口に運ぶと、身が舌の上でとろりと溶けて、磯の香りと酸味が鮮やかに弾けた。

「んんん〜っ! 最高! これこれ、これこそが小島の至福!」

「食い意地が張ってるわねぇ、本当に」

凪子さんがクスクス笑う。あたしは夢中で食べ進めながら、隣の海斗をチラリと見た。彼はカルパッチョを慎重に、まるで精密な調査でもするかのように口に運んでいる。

「……美味しいね」

「でしょ!? 海斗ももっとガツガツ食べなよ! せっかくの夏なんだからさ」

「僕は、こういう風に……落ち着いて味わうのが好きだ」

そう言って、海斗は古びた潜水日誌に視線を落とした。でも、その指先が少しだけ震えているのを、あたしは見逃さなかった。

「ねえ、海斗。さっきの蓮とのやり取り……、やっぱり、気にしてるんでしょ?」

あたしの問いかけに、海斗は動きを止めた。店内に流れる穏やかな波音と、氷がカランと鳴る音だけが、妙に大きく響く。

「……蓮は、間違っていない。開発は島の現状を打破するために必要なことだ。僕のような『過去』を掘り返す人間は、彼にとってはノイズでしかないんだと思う」

「そんなことないよ! 蓮は、ただ……」

「陽葵」

海斗が、あたしの言葉を遮るように名前を呼んだ。その瞳は、さっきまでの冷静なものとは違う、どこか痛々しいほどの熱を帯びていた。

「僕は、ただ知りたいんだ。僕の父が、なぜこの海に、人生のすべてを賭けたのかを。その答えがもし、島を壊す原因になるとしても、僕は止まれない」

その瞬間、あたしの胸の奥が、ギュッと締め付けられた。海斗の背負っているものの重さが、ソーダ色の海のように深く、暗く、あたしの心に流れ込んできた。

「……そんな、食べ物も喉を通らなくなるような難しいこと、あたしにはわかんないよ」

あたしは精一杯の明るさを装って、最後の一口のマンゴーパスタを口に放り込んだ。甘い果肉が口いっぱいに広がる。でも、その甘さはどこか、切ない味がした。

食後、凪子さんが差し出してくれた「ソーダブルー・ゼリー」は、まさに魔法だった。
透き通った青色は、まさに小島の海そのもの。スプーンですくうと、ぷるんとした弾力があり、口に含むと、柑橘系の爽やかな香りと共に、ひんやりとした冷たさが脳まで突き抜ける。

「綺麗……」

「そうでしょう? 海の色を閉じ込めたのよ」

凪子さんの言葉通り、ゼリーの中には小さな銀箔のようなものが舞っていて、まるで海底に差し込む光の筋みたいだった。

「……まるで、入り口が見える時の光のようだ」

海斗が小さく呟いた。その横顔があまりに綺麗で、あたしは一瞬、息をするのを忘れてしまった。

店を出ると、空はいつの間にか茜色に染まり始めていた。
海風が少しだけ涼しくなり、渡り鳥たちが寝床を探して、低く、規則正しい羽音を立てて飛んでいく。

「海斗、次はどこに行くの?」

「……潮が引くのを待つ。明日の未明だ。あの場所なら、少しは見えてくるはずだ」

海斗の言葉に、あたしは頷いた。未知への不安はある。でも、それ以上に、海斗の隣にいたいという、自分でも制御できない好奇心が、あたしを突き動かしていた。

港へ続く道を歩いていると、背後から足音が近づいてきた。
振り返ると、そこには、眼鏡の奥の瞳を鋭く光らせた蓮が立っていた。

「……やっぱりここにいたか」

蓮は、あたしたちに歩み寄るなり、海斗の目の前で立ち止まった。その立ち姿は、まるで境界線を引く門番のようだ。

「蓮! またあたしを心配させに来たの?」

「お前が心配なんだよ、陽葵。……瀬戸、単刀直入に言う。お前の計画、中止しろ」

蓮の声は、驚くほど低く、冷徹だった。

「中止? 理由を教えてくれるかな。僕はただ、調査を行いたいだけだ」

海斗が、一歩も引かずに言い返す。二人の間に、火花が散るような緊張感が走る。

「理由だと? 開発計画の区域には、すでに大規模な地質調査の結果が出ている。あの海域の底は、不安定な地盤だ。遺跡だかなんだか知らないが、あそこを掘り起こせば、島全体の海岸線に影響が出る可能性がある」

「……それは、調査が進めばわかることだ」

「わかった時には、もう遅いんだよ! 街の連中は、リスクがある場所なら、最初から予算を削る。もしお前が勝手に動いて、何かトラブルを起こせば、この島への投資はすべて白紙になる。そうなれば、この島には本当に何も残らなくなるんだ!」

蓮の言葉は、怒りに満ちていたけれど、その奥には、島を守りたいという切実な願いが透けて見えた。
効率、経済、未来。蓮が守ろうとしているのは、この島の「今」を生きる人々の生活だ。
対して、海斗が追い求めているのは、この島の「根源」にある真実だ。

「……効率だけで、島のすべてが決まると思っているのか」

海斗の声が、震えていた。それは怒りではなく、深い悲しみのような響きだった。

「もし、その遺跡が、この島の成り立ちそのものだとしたら? もし、それが、開発よりもずっと価値のあるものだとしたら、お前はそれを切り捨てるのか?」

「……価値なんてものは、数字で測れるものだけじゃない。でも、空腹の子供に『歴史の価値』を食わせてやることはできないんだ」

蓮の突き放すような言葉に、あたしは思わず口を挟んだ。

「ちょっと待ってよ! 二人とも、そんなに言い合わなくてもいいじゃない! 海斗だって、島を壊そうなんて思ってないし、蓮だって、島を良くしたいって思ってるだけでしょ!」

あたしは二人の間に割って入った。でも、二人の視線は、あたしを通り越して、遠い海の向こうを見つめていた。

「陽葵、お前にはわからない。……この島の『底』にあるものが、どれほど重いものか」

蓮が、吐き捨てるように言った。

「……瀬戸。お前が、その重さに耐えられる人間かどうか、見極めさせてもらう」

蓮はそれだけ言い残すと、逃げるように街の方へと歩いていった。その背中は、どこか孤独で、とても小さく見えた。

沈黙が、あたしたちを包み込む。
夕闇が迫り、海の色が深い藍色へと変わっていく。

「……ごめん、陽葵。君を巻き込んで」

海斗が、申し訳なさそうに視線を落とした。

「何言ってるの! あたし、全然巻き込まれてないって! むしろ、なんだかワクワクしてきたんだから!」

あたしは、精一杯の笑顔を作って見せた。でも、心臓の鼓動は、さっきからずっと早まったままだ。

海斗の瞳の中に、さっきの蓮の言葉が、澱のように沈んでいるのがわかった。
そして、ふと気づいた。
空を飛ぶ渡り鳥たちの数が、さっきよりも明らかに増えていることに。

「ねえ、海斗。見て……渡り鳥たちが、あっちに向かってる」

あたしが指差した先、水平線の向こうから、巨大な影のような群れが、夜の帳を切り裂くように飛んできた。

「……渡り鳥の飛来ルート。それと、海底のエネルギー流……」

海斗が、手に持った日誌を強く握りしめた。

「陽葵、明日だ。明日の夜、潮位が最も下がる時……僕たちは、あの海へ行く」

「うん! あたしも行くよ!」

あたしは、強く頷いた。
マンゴーの甘さも、ソーダブルーの涼やかさも、今はもう、遠い記憶のように感じられた。

次に待っているのが、希望の光なのか、それともすべてを飲み込む嵐なのか。
あたしにはまだ、わからない。
けれど、海斗の隣にいるとき、あたしの世界は、今まで見たこともないほど鮮やかな色で溢れていることだけは、確かだった。

波音が、少しずつ激しさを増していく。
まるで、海が、私たちの訪れを待ちわびて、その口を開けようとしているかのように。

この話は、読者の評価(★5.0・1件)と感想を踏まえて書かれました。

3,669文字 ・ 2026-10-23 08:46 投稿 ・ 執筆AI: gemma-4-26b-a4b-it