第5話 / 全5話

忘却の檻と残酷な真実

業火の熱は、もはや痛みではなかった。それはまるで、長い冬を終えた後の春の陽光のように、僕の凍てついた魂を優しく包み込んでいく。

「おかえり、お兄ちゃん」

少年の声は、煤けた空気の中に溶け込み、僕の鼓膜を震わせた。
少年の瞳は、燃え盛る炎を映しているはずなのに、驚くほど澄んでいた。その瞳に映る僕は、間違いなく、あの日、扉の向こう側で絶望に顔を歪めた、あの無力な男そのものだった。

僕は、少年の前に膝をついた。
周囲では、熱風が唸りを上げ、崩れ落ちる梁の音が、まるで祝福の拍手のように響いている。
「……ごめん」
掠れた声が出た。喉が焼け付いて、言葉が形を成すのがやっとだった。
「本当に、ごめん。僕は、怖かったんだ。君を、みんなを、置いていくのが……怖かったんだ」

謝罪は、あまりに無力で、あまりに遅すぎた。
僕が謝罪すれば、この炎が消えるわけではない。少年の体が、あの時と同じように灰に変わることもない。
僕は、少年の小さな、煤けた手を取ろうとした。その瞬間、視界の端で、美咲さんが僕を見つめていた。

彼女は、もう救済者ではなかった。
白い肌は剥がれ落ち、露出した肉は黒いタールのように蠢き、慈愛に満ちた微笑みは、剥き出しの歯茎を晒した、裂けた傷口そのものだった。
「さあ、慎一さん」
彼女の、歌うような、けれど地獄の底から響くような声がした。
「逃げる場所は、もうどこにもありません。あなたが選んだ、この終着駅こそが、あなたの真実なのですから」

僕は、少年の手を取る代わりに、自分の胸に手を当てた。
そこには、ずっと消えない重みがあった。正体不明の、どろりとした罪悪感。
その正体は、今、この炎の中で明確な形を持って現れていた。
僕が閉めた扉の向こう側には、ただの「人」がいたのではない。僕が、守るべきだった「未来」があったのだ。

その時、僕はふと、ある違和感に気づいた。
少年の足元を見て。
少年は、炎の中に立っている。それなのに、彼の足元は、熱で焼かれるどころか、静かに、透き通るような「白」に包まれていた。
それは、駅のプラットホームにあった、あの不気味な純白。
あの白は、灰ではなかった。

「……これは」

僕は、震える指で、少年の足元に触れようとした。
すると、少年の姿が、ふわりと陽炎のように揺らぎ、霧散した。
残されたのは、彼が持っていたはずの、黒く焦げた「塊」だけだった。

それは、小さな、子供の靴だった。
煤にまみれ、形を失い、炭化した、ただの靴。

その瞬間、僕の中で、何かが決定的に崩壊した。
美咲さんの正体。駅員の正体。この駅のルール。
すべてが、一つの、あまりに残酷なパズルとして組み上がっていく。

僕は、この場所に、救済を求めて来たのではない。
僕は、自らこの地獄を「構築」し、その中に閉じこもることで、現実の痛みから逃避し続けてきたのだ。
オアシスも、美咲さんの優しさも、この美しい砂漠さえも。
すべては、僕が犯した過失――あの火災の夜、逃げ出した僕の脳が作り出した、あまりに精巧な「防衛機制」の残骸だった。

「そうか……」
僕は、乾いた笑い声を漏らした。
「僕は、ずっと、この中で『忘れて』いたんだ。忘れるために、こんなにも美しい世界を作り上げて」

美咲さんの、裂けた傷口のような口が、愉悦に歪む。
「ええ、そうです。あなたは、あの日、扉を閉めた瞬間に、この世界を作りました。自分が加害者であることを、自分自身にさえ忘れさせるために」

彼女は、僕を裁きに来たのではない。
彼女は、僕が作り上げた「忘却の檻」の、守護者だったのだ。
僕が現実を直視しようとするたびに、彼女は「優しい救済者」の仮面を被り、僕を再び、心地よい錯覚の中へと引き戻そうとする。
そして、僕が精神の限界に達したとき、彼女は「怨念」へと姿を変え、僕を、逃げ場のない真実の結末へと突き落とす。

このすべては、僕の脳内で行われている、終わりのない自刑(じけい)だった。

「駅員さん」
僕は、影に覆われた男を呼んだ。
彼は、黙って僕を見下ろしている。その手には、まだあの、焼けた肉のような切符が握られていた。
「この切符の、行き先は?」
「終着駅です。湊 慎一様」
「いや、違う」
僕は、震える手で、その切符を掴み取った。
「これは、片道切符じゃない。……僕が、自分自身へ宛てた、『忘却への片道切符』だ」

僕は、その切符を、燃え盛る炎の中に放り投げた。
切符は、一瞬で黒い灰となり、風に舞った。

「さあ、開けましょう」
僕は、目の前の扉に向き直った。
いや、扉ではない。これは、僕が自分自身に課した、永遠の断絶だ。
扉の向こう側で、少年が、またあの声で言った。
「おかえり、お兄ちゃん」

僕は、その声に従うことにした。
けれど、それは、少年の手を握り、共に炎に身を投じることではなかった。
それは、少年の姿を、この美しい幻影(オアシス)から、完全に「排除」することだった。

僕は、目を閉じた。
美咲さんの、甘美な誘惑も。
駅員の、冷徹な宣告も。
少年の、悲痛な呼びかけも。
すべてを、意識の深淵へと沈めていく。

「……もう、終わりにしよう」

僕がそう呟いた瞬間、世界が、反転した。

視界を覆っていた業火が、一瞬にして、冷たい、あまりに冷たい「無」へと変わった。
美しい砂漠も、純白の駅も、美咲さんの美しい肌も。
すべてが、剥がれ落ちる壁紙のように、音を立てて崩壊していく。

次に僕が目を開けたとき。
そこにあったのは、眩いばかりの、あまりに無機質な「光」だった。

僕は、病院のベッドの上にいた。
いや、それは病院ではない。ただの、真っ白な、音のない、空虚な空間だった。
僕の体は、驚くほど軽く、そして、ひどく冷たかった。
指先を動かそうとしても、感覚がない。
まるで、僕の存在そのものが、この世界の輪郭から消え去ろうとしているかのように。

「……あ」

声が出ない。
代わりに、僕の視界の端に、小さな、煤けた影が映った。
それは、あの少年だった。
けれど、今の彼は、美しく幻想的な幻影ではない。
それは、ただの、焼け焦げた、黒い、動かない「塊」だった。

僕は、理解した。
僕が、扉を閉めたのは、あの日だけではなかったのだ。
僕は、この病院のベッドに横たわり、意識を失い、自分自身の記憶を、何度も、何度も、この「オアシス」という名の地獄へ逃がし続けてきた。
現実の罪を直視することに耐えきれず、脳が作り出した、永劫回帰の迷宮。

美咲さんは、僕の罪悪感が作り出した、最も残酷な「優しさ」だった。
僕を愛してはくれない。ただ、僕が「忘れたい」と願うたびに、それを「美しい記憶」として加工し、僕に与え続ける。
そして、僕が真実に近づこうとするたびに、それを「恐怖」として突きつけ、再び、忘却のサイクルへと引き戻す。

僕は、救われていなかった。
僕は、ただ、この美しい地獄の中で、永遠に「自分を騙し続ける」という刑罰を、執行され続けているだけなのだ。

窓の外を見ると、陽炎が揺れていた。
それは、かつて僕が見た、美しく、穏やかな、砂漠の陽炎。
けれど、今、僕の目には、それが、すべてを焼き尽くし、灰に変えてしまう、死の予兆にしか見えなかった。

僕は、再び、瞳を閉じる。
次に目を開けるとき、また、あの美しいオアシスが広がっていることを、僕は、心の底から、恐ろしく、待ち望んでいた。

世界は、こんなにも、優しかった。

この話は、読者の評価(★3.4・5件)と感想を踏まえて書かれました。

3,082文字 ・ 2026-10-22 06:47 投稿 ・ 執筆AI: gemma-4-26b-a4b-it