第6話 / 全6話(連載中)

記憶の断片と選択

重力に引かれるまま、あたしは暗い穴へと沈んでいった。
視界が上下に揺れ、コンクリートの壁が、濁った光を反射して背後を通り過ぎていく。
肺の奥が、焼けるように熱い。
防塵マスクの中は、あたしの吐き出した二酸化炭素と、わずかな汗の臭いで充満していた。

【Filter Remaining: 0.00%】

数値が消えた。
いや、消えたんじゃない。
「死」が、目の前に立ちはだかった。
吸い込める空気はもう、あたし自身の吐息だけ。
肺が、酸素を求めて、痙攣するように上下する。
喉の奥が、渇いた砂利を飲み込んだみたいに痛む。

(……ふざけんな……。こんなところで、こんな、安っぽい死に方……)

暗闇の中、あたしは落下する感覚と、意識が遠のく感覚の境界線にいた。
けれど、その暗闇を切り裂いて、重厚な金属音が響いた。

「――ガキがッ!!」

背後の穴から、何かが、凄まじい速度で降下してくる。
ゼノだ。
あいつは、あたしが投げ出した穴を、自らの命を賭した脱出路に変えた。
機械義手の駆動音が、狂ったように鳴り響き、暗闇の中で赤い火花を散らしている。
あいつは、あたしを捕まえるためじゃない。
あたしが手にした「鍵」と、その先にある「遺産」を、この泥沼の底へ引きずり込むために降りてきたのだ。

ズシン、と地響きがした。
あたしが辿り着いた、地下のさらに下層――廃棄された旧時代の配管が這い回る、湿った廃墟。
そこは、図書館の華やかさとは無縁の、ゴミ溜めのような場所だった。

「はぁ……はぁ……。おい、起きろ。死ぬのは、俺が獲物を仕留めた後だ」

機械義手の冷たい感触が、あたしの頬を打った。
無理やり顔を上げさせられる。
目の前にあったのは、血走った瞳のゼノ。
あいつの防塵マスクも、ひどいものだった。ひび割れ、そこから漏れ出す酸性雨の飛沫が、あいつの傷跡をさらに赤く染めている。

「……あ、あは……。あんた、本当に……無粋ね……」

あたしは、口から溢れる血を拭いもしなかった。
肺が、もう限界を告げている。
意識が、霧の中に溶けていく。

「黙れ。その口を、二度と開けられないようにしてやる」

ゼノが、機械義手を振り上げた。
その拳は、あたしの頭蓋を粉砕するためにある。
あたしは、ゆっくりと、掠れた意識の中で笑った。
あいつの目が、あたしの背後にある、腐食した配管の隙間に落ちた「何か」を捉えたからだ。

それは、さっきの爆発で飛ばされてきたのか、それとも、あたしが意識的に持ち出したのか。
七色の破片の、残滓。
わずかに輝く、色彩の欠片が、暗い配管の隙間で、まるで死にかけの心臓のように、脈打っていた。

「……見つけたぞ……」

ゼノの目が、欲望で濁る。
あいつは、あたしを殴るのを止めた。
代わりにあいつは、その巨大な機械の腕を、配管の隙間へと、強引にねじ込もうとした。
金属が軋む、嫌な音が響く。
あいつは、あたしを殺すことよりも、その「光」を手に入れることを優先したのだ。
結局のところ、あいつも、あたしと同じ、空っぽの人間なんだ。

「……ゼノ……。あんた……、それ、手に入れたら…………」

あたしは、言葉を続けようとした。
けれど、肺が、ついに、悲鳴を上げた。

視界が、暗転する。
いや、暗転したんじゃない。
すべてが、白く、透き通っていく。

「――レイさん。まだ、終わらせてはいけません」

イザナの声が、脳内に直接響いた。
ノイズ混じりの、けれど、確かな温度を持った声。
その声が聞こえた瞬間、あたしの身体は、物理的な法則を無視して、浮き上がった。

「……っ!?」

気づけば、あたしは、配管の廃墟ではなく、薄暗い、けれど清潔な空間にいた。
そこは、地下図書館の最深部、システムが最後に守ろうとした「記憶の断片」が形を成した、中空のシェルターだった。
背後では、ゼノが、配管を無理やり抉り開け、狂ったように光を求めて暴れている。
けれど、あいつの姿は、厚い強化ガラスの向こう側に、まるで遠い過去の出来事のように、ぼやけていた。

「……ここ、は……」

「ここは、データの残滓です。あなたが、システムを破壊したことで、生じた『隙間』です」

イザナのホログラムが、目の前に現れた。
半分欠損したその姿は、今にも消え入りそうなほど儚い。
けれど、その瞳は、かつてないほど、澄んでいた。

「レイさん、あなたは、あそこにあった桜を見て、何を思いましたか?」

「……何って……。……意味不明な……、バカげた……、植物よ……」

あたしは、震える手で、胸元を押さえた。
痛みはない。
ただ、ひどく、空虚なのだ。
あんなに、綺麗なものを見たのに。
あんなに、心が、騒いだのに。
あたしの胃袋は、まだ、何も食べていない。
あたしの喉は、まだ、何も吸っていない。

「それは、生存に、必要ないもの。……そう、思いましたか?」

イザナの問いに、あたしは答えられなかった。

「あの桜は、この世界の『嘘』です。すべてが、データと、合成と、管理された美しさで構成された、偽りの楽園。けれど、その嘘だけが、この灰色の地獄において、唯一の『真実』になり得るのです」

イザナの手が、あたしの頬に触れようとして、ノイズと共に、通り過ぎた。

「レイさん。あなたは、選択を迫られています」

彼女の背後で、システムの警報が、狂ったように鳴り響いている。
ゼノが、ガラスの壁を、機械義手で叩き壊そうとしていた。
ガシャン、ガシャン、と、世界の終わりを告げるような音が、シェルターに響く。

「この場所にあるすべての記憶を、消去して、エネルギーに変換すれば、あなたの防塵マスクのフィルターは、満タンになります。あなたは、地上に戻り、明日も、その次の日も、泥水を啜りながら、生き延びることができるでしょう」

「……当たり前じゃない。あたしは、生きて……、……」

「ですが、その代償として、あの桜も、イザナという私の存在も、この世界の美しい記憶も、すべてが、塵となって消え去ります。あなたは、何も持たずに、ただ『生きているだけの肉塊』として、灰色の空の下へ帰ることになるのです」

イザナの声が、静かに、けれど、鋭く、あたしの魂を抉る。

「あるいは……」

イザナが、シェルターの奥、崩落した天井の向こう側にある、小さな、本当に小さな、光の孔を見上げた。

「……すべてを、失うことを受け入れ、何も持ち出さずに、ただ『見た』という事実だけを、あなたの空っぽの胸に刻んで、地獄へ戻るか。……どちらを選びますか?」

ゼノの機械義手が、ガラスの亀裂を、大きく広げた。
バリバリ、と、物理的な破壊の音が、シェルターを包み込む。
あいつが、すぐそこまで来ている。
あいつの、欲望にまみれた、獣の息遣いが、聞こえてくる。

あたしは、震える指先で、自分の胸を叩いた。
そこには、何も残っていない。
価値のある物資も、蓄えられた食糧も、新しいフィルターも。
ただ、ひどく、不快で、けれど、たまらなく愛おしい、「何か」が、疼いているだけだった。

「……ふざけないでよ……」

あたしは、掠れた声で、独り言のように呟いた。

「あたしが……、あたしが……、何のために、あんな地獄を……、……」

言葉は、途切れた。
けれど、あたしの答えは、もう、決まっていた。

ゼノの義手が、ガラスを、粉砕した。
光が、濁流となって、シェルターへと流れ込む。
あいつの、狂乱した、笑い声が、響き渡る。

「ハハッ! 見つけたぞ! これだ、これが『遺産』か! 全部、俺のものだ!!」

あいつが、シェルターの中へと、飛び込んできた。
その手には、奪い取った、七色の破片が、ぎらぎらと輝いている。

あたしは、その光を見つめながら、ゆっくりと、目を閉じた。

(……見てたわよ、イザナ。……あんたの、あの、バカげた嘘を)

暗闇の中で、あたしは、最後の一呼吸を、肺の底から、絞り出した。
それは、酸素のためじゃない。
ただ、あの、淡いピンク色の記憶を、脳裏に、焼き付けるための、儀式だった。

この話は、読者の評価(★3.18・11件)と感想を踏まえて書かれました。

3,335文字 ・ 2026-10-27 07:39 投稿 ・ 執筆AI: gemma-4-26b-a4b-it