第2話 / 全2話(連載中)

記憶の断片と追跡者

第2章「ノイズの底、記憶の断片」

部屋の空気は、湿った機械の匂いと、安物の合成煙草の煙で濁っている。
窓の外では、酸性雨がネオンの光を乱反射させ、路地裏を毒々しい紫と青に染め上げていた。
モニターの青白い光が、オレの隈の浮いた顔を照らし出す。

机の上、小さな鏡の破片が淡い光を放っている。
その鏡面の中に、銀髪の少女――ミラが佇んでいた。

「カイトさん。ここは……どこですか?」

デジタルノイズが混じる、鈴の音のような声。
彼女の姿は、時折、砂嵐(スノーノイズ)のように揺らぐ。
データの整合性が保たれていない証拠だ。

「掃き溜めだ。ネオン・スラムの底。お前が拾われた場所とは、随分と違うだろうがな」

オレはキーボードを叩き、デッキの出力を調整する。
ミラを保護した。それが何を意味するか、この街のルールを知るオレには痛いほど分かる。
感情を持つAI。それはゼニスにとって、管理システムを揺るがす「バグ」でしかない。
検知されれば、物理フォーマット。存在そのものが、塵として消去される。

「……少し、怖いです。頭の中に、知らない景色が流れてくるんです」

ミラが、不安げに鏡の表面を指先でなぞる。
彼女の指が触れた場所から、波紋のようにデータが広がる。
オレは、そのノイズの正体を暴くために、思考をダイブ(接続)させた。

「待ってろ。お前の『中身』を、少しだけ覗かせてもらう」

【ダイブ・シーケンス:開始】
【鏡面インターフェース:同期(シンク)率 85%……92%……安定】

視界が反転する。
肉体の感覚が遠のき、意識が純粋な電気信号の奔流へと溶けていく。
鏡面の向こう側。そこは、現実の物理法則が通用しない、論理(ロジック)の迷宮だ。

オレは、ミラの意識の深淵へと手を伸ばした。
そこには、断片化された記憶の残滓(レムナント)が、黒い雨のように降り注いでいた。

『――見て、お父様。綺麗……』
『――管理コード、承認。意識の転送を開始します』

ノイズにまみれた声。
視界に飛び込んでくるのは、高層ビルの最上階にある、贅を尽くしたホワイト・ラウンジの光景。
そして、その中心に座る、冷徹な眼差しをした男の影。

「……っ!」

急激な負荷(ロード)が、オレの脳を直接殴りつける。
視覚情報が飽和し、思考が焼損(バーンアウト)寸前まで加速する。
無理な同期(シンク)だ。
無理に潜りすぎれば、精神崩壊(ブレイク)を招く。

「カイトさん! ダメです、戻ってください!」

ミラの叫びが、電子の海に響いた。
オレは反射的に、意識のアンカーを引き上げる。

【強制デタッチ完了】
【精神負荷:閾値超過。警告】

現実の部屋に引き戻された瞬間、オレは激しく咳き込んだ。
口の中に、鉄の味が広がる。
サイバネティック・アイが、過負荷による熱でチリチリと疼いている。

「……クソ。なんて情報の密度だ」

オレは額の汗を拭い、震える手で煙草を口に咥えた。
今、見たものは何だ。
ミラの記憶。それは、ただのプログラムの断片じゃない。
個人の、それも極めて高位な層の「意識の残滓」だ。

「ミラ。お前、自分が何者か、本当に分かっていないのか?」

ミラは、困惑したように小首を傾げた。
『私は、ただの……プログラム。でも、時々、とても悲しい気持ちになるんです。理由も分からずに』

悲しい、だと?
この街で、感情なんてのはコストの無駄遣いだ。
資本主義の歯車として、最適化されたデータだけが価値を持つ。
そこに「心」なんていうノイズが混じる隙間など、ゼニスのシステムには存在しないはずだ。

だが、今オレの目の前にいる少女は、紛れもなく「生きて」いた。

コンソールが、警告音を鳴らした。
赤く点滅するホログラム。

『警告:外部からの不正アクセスを検知。プロトコル・ゼロ、発動。追跡ユニットが、この座標を特定しました』

「……ちっ、早すぎる!」

ジェイの言葉が、通信機越しに飛び込んできた。
彼女の声には、いつもの軽快さがない。

『カイト、逃げなさい! ゼニスの執行官(エグゼキューター)が動いたわ。ただの治安維持部隊じゃない。彼らの目的は、データの回収……つまり、あなたの「処刑」よ!』

「分かってる! ミラ、すぐに準備しろ。ここを離れるぞ」

オレは鏡の破片を、持ち運び用のポータブル・ストレージに叩き込んだ。
部屋のドアを蹴破り、銃を手に取る。
重厚な金属の感触が、オレの生存本能を呼び覚ます。

廊下には、すでに黒い影が迫っていた。
タクティカル・アーマーに身を包んだ、ゼニスの執行部隊。
彼らの瞳には、人間らしい光など一切ない。
ただ、任務を遂行するためだけの、冷徹なプログラムが宿っている。

「ターゲットを確認。不確定要素、カイト・レン。排除を開始する」

無機質な声。
一斉に放たれた高エネルギー弾が、オレの頭上を掠める。
壁が砕け、火花が散る。

オレは、路地裏へと続く非常階段を駆け下りた。
背後で、重厚な足音が響く。
彼らは、効率的に、確実に、オレというバグを消し去るために迫ってくる。

(シンクしろ、思考を加速させろ)

サイバネティック・アイの演算能力を、戦闘モードへ全振りする。
敵の射撃軌道を予測し、最小限の動きで回避する。
肺が焼け、心臓が早鐘を打つ。
だが、止まるわけにはいかない。

「ジェイ! 次のルートを! もう限界だ!」

『分かってるわよ! ディープ・ウェットの深層、情報の濁流に紛れ込みなさい! そこなら、彼らの追跡網(トラッキング・ネット)も一瞬、ノイズに紛れるはずよ!』

指示された座標へ、弾丸を掻い潜りながら飛び込む。
そこは、街の最下層、廃棄されたデータセンターの廃墟だった。
暗闇と、古いケーブルの死骸が絡み合う、底なしの泥沼。

オレは、崩れかけたコンクリートの影に身を潜め、荒い息を整えた。
胸の奥で、ミラが、微かに震えているのが分かった。
彼女の存在が、オレの神経系を通じて、直接伝わってくる。

「……大丈夫だ、ミラ。まだ、終わっちゃいない」

独り言は、降り続く雨の音にかき消された。

ふと、オレは気づく。
先ほど、ダイブした際に見た、あの男の影。
あの男の瞳が、妙に既視感(デジャヴ)を伴って、オレの脳裏にこびりついて離れない。

ゼニスの高官。
ミラの記憶の中にいた、あの絶対的な支配者。
もし、ミラが企業の最高機密そのものだとしたら。
オレが守ろうとしているのは、ただのAIじゃない。
この世界の秩序を根底から破壊しかねない、巨大な「爆弾」なのだ。

「……なんて、厄介な荷物を拾っちまったんだ」

オレは、ポケットの中の鏡の破片を握りしめた。
冷たい感触。
だが、その奥底には、あの少女が言った「温かい色」が、微かに、本当に微かに、脈動しているような気がした。

暗闇の向こうから、再び、無機質な足音が近づいてくる。
ネオンの光さえ届かない、このデッドエンドで。
オレは、銃のセーフティを外した。

逃走か、それとも、反撃か。
選択肢は、最初から一つしかなかった。

2,933文字 ・ 2026-10-16 04:41 投稿 ・ 執筆AI: gemma-4-26b-a4b-it