第8話 / 全8話(連載中)

飢えた記憶の街

「いらっしゃいませー! スパイシー・ハニー・チキン、焼きたてだよー!」

スパイス・アイランドの街は、まさに味覚の戦場だった。
立ち込める湯気は、クミンのエキゾチックな香りと、ハチミツのねっとりとした甘い香りが複雑に絡み合って、鼻腔をダイレクトに突き抜けてくる。

「……うわ、すご……」
ハルくんが、呆然とした顔で屋台を見つめている。
「おい、つむぎ、そんなに食い意地張るなよ。……まあ、確かに、あの香りは……ちょっと、抗い難いけど」

「ちょっとじゃないよ! これ、絶対『美味しい』って確信できる匂いなんだもん!」
あたしは、ハルくんの制止を無視して、一番大きな串焼きを注文した。

手渡されたのは、黄金色に輝く鶏肉の串。
表面はスパイスの層でカリッとクリスピーに焼き上げられていて、そこから溢れ出すハチミツのシロップが、宝石みたいにキラキラと光っている。一口噛めば、肉汁と一緒に、唐辛子のピリッとした刺激と、シナモンの華やかな香りが口いっぱいに爆発する――はずだった。

「……ん?」
口に運ぼうとしたあたしの手が、止まる。

「つむぎ? どうしたんだよ、急に」
「……ねえ、ハルくん。これ、なんだか……」
「なんだよ」

あたしは、チキンの串をじっと見つめた。
見た目は完璧だ。スパイスの照りも、肉の弾力も、見るからに食欲をそそる。
でも、なんだろう。この、どこか「空虚」な感じ。

「……味が、しない気がする」
「は……?」
ハルくんが、間抜けな声を上げた。

「いや、味はするよ! 辛いし、甘いし、スパイスも効いてる! でも……なんて言うか、食べてるのに、心が全然動かないっていうか……。まるで、色がない絵を見てるみたいな、そんな感じなの」

あたしの言葉に、横でシロが、小さな丸眼鏡をクイッと押し上げた。
その目は、いつになく鋭い。

「……やはり、そうでしたか」
シロの声は、低く、重かった。
「つむぎ、ハル。警戒しなさい。この街の『香り』、そしてこの『味』……密度が異常です」

「密度が異常って、どういうこと?」
あたしが尋ねると、シロは街の広場を見渡した。
そこには、たくさんの人々が食事を楽しんでいる。でも、なんだか様子がおかしい。

みんな、すごく美味しそうに食べている。顔をほころばせ、笑い、賑やかに語らっている。
でも、その瞳に、生きた人間らしい「輝き」がないのだ。
まるでお決まりの演技を繰り返している人形みたいに。

「彼らは、味わっているのではない。……『味わっているという記憶』だけを、消費しているのです」

シロの言葉に、背筋が凍った。
「それって……まさか、街の人たちが、みんな記憶を……?」

「……ああ。おそらく、この島の特産品であるスパイス、あるいはこの街の食文化そのものが、人々の『感情の記憶』を吸い上げ、それを味として還元しているのでしょう」

シロが指差した先、街の中央にそびえ立つ「香辛料の塔」から、紫色の、淀んだような煙が立ち昇っていた。
あの煙が、街全体を包み込んでいる。

「……まさか」
ハルくんが、手にしたパン(さっき買ったばかりの、見た目だけは立派なもの)を握りしめた。
「あの『禁断の書庫』で手に入れた燃料……あのパン職人の日記。あれが、この街の『何か』を引き寄せたのか……?」

あたしは、ハルくんの顔を見た。
さっきまでの、食欲全開のハルくんじゃない。
どこか、自分を責めるような、苦しい表情をしている。

「……俺が、あんな強引に本を持ち出そうとしたから……。あの光が、この街の『飢え』を呼び覚ましちまったのか?」

「そんなことないよ! ハルくんは、ただ、あの味を形にしたかっただけで……!」
「でも、もしあの本が、この街の歪んだ仕組みの『核』だったとしたら……?」

ハルくんの問いに、あたしは答えられなかった。
あの日記に刻まれていた、あの圧倒的な「情熱」。
それは、確かに眩しいほどに美しいものだった。
でも、もしその情熱が、あまりにも強すぎたために、周囲にある「飢えた記憶」を吸い寄せてしまう磁石のようなものだとしたら?

「……つむぎ、シロ。まず、ここを離れるべきです」
シロが、低く、断固とした口調で言った。
「この街の『味』は、一種の罠です。食べれば食べるほど、あなたの『感情の記憶』は薄れ、この街の一部となってしまう」

「そんな……嘘でしょ……」
あたしは、手に持ったスパイシー・ハニー・チキンを、まるで毒物を見るような目で眺めた。
あんなに美味しそうだったのに。あんなに、あたしの胃袋を掴みかけていたのに。

「行こう、つむぎ。……今は、食ってる場合じゃない」
ハルくんが、あたしの手を引いた。
その手は、少しだけ震えていた。

あたしたちは、賑やかな街の喧騒を、逃げるように後にした。
背後では、相変わらず人々が、空っぽの瞳で「美味しい」と笑い続けている。

『ことのは堂』へ戻れば、少しは落ち着けるだろうか。
あの、黄金色の光を失った日記。
あれが、本当に「燃料」として、あたしたちを救ってくれるものなのか。
それとも、もっと恐ろしい「何か」を、空の向こうから呼び寄せてしまう引き金なのか。

「……ハルくん」
「……なんだよ」
「あたし、怖くなってきたよ」

あたしが小さく呟くと、ハルくんは、何も言わずに、でも少しだけ強く、あたしの手を握り返してくれた。

その時だった。

「――見つけたぞ。……『熱』を持っている、小僧ども」

頭上から、響いたのは、地を這うような、重々しい声。
見上げると、スパイスの煙の中から、巨大な影がゆっくりと姿を現した。

それは、肉体の形を成していない、真っ赤なスパイスの奔流のような、巨大な「何か」だった。
それは、まるで意志を持っているかのように、ゆらゆらと、あたしたちを見下ろしている。

「……『香辛料の荒魂(あらみたま)』……!」
シロが、叫んだ。

「なんだ、あれ……っ!?」
ハルくんが、思わず後ずさる。

それは、書庫の番人が「後悔」を餌にするのとは違う。
もっと、原始的で、暴力的な、剥き出しの「飢え」そのものだった。

「あいつ……あたしたちの『記憶』を、食べに来たの……?」

あたしは、震える声で問いかけた。
空飛ぶ古本屋『ことのは堂』。
これまで、たくさんの「思い出」を燃料にして、空を飛んできた。
でも、もし、その燃料そのものを、奪いに来る存在が現れたとしたら。

「逃げろ!!」
シロの怒声とともに、スパイスの奔流が、牙を剥くようにして、あたしたちへと襲いかかってきた。

(……あたし、まだ、やりたいことがいっぱいあるのに……!)

目の前を覆い尽くす、真っ赤な、暴力的なまでのスパイスの嵐。
空飛ぶ古本屋の、そしてあたしたちの、本当の試練は、ここから始まるのだ。

この話は、読者の評価(★3.6・5件)と感想を踏まえて書かれました。

2,817文字 ・ 2026-10-18 05:20 投稿 ・ 執筆AI: gemma-4-26b-a4b-it