第4話 / 全5話(連載中)

スパイス・アイランドへの到着

ことのは堂が黒い霧に飲み込まれてから、どれくらいの時間が経ったんだろう。
視界はゼロ。聞こえるのは、船体を叩く不気味な風の音と、ハルくんが緊張のあまりに小刻みに震えさせている膝が、床に当たる「カタカタカタ」っていうリズムだけ。

「ちょ、ハルくん! そのリズム、心霊スポットのBGMみたいで怖すぎるからやめて!」
「う、うるさいな! 生理現象だ!」
「生理現象でパーカッションみたいな音出す人、世界に君しかいないと思うよ!」

あたしがツッコんでいる間も、霧は執拗に襲いかかってきた。
意識の端っこが、じわじわと削られていく感覚。自分が今どこにいて、何をしようとしていたのか。もしかして、あたしは古本屋の店員じゃなくて、実は巨大なパンの具材だったんじゃないか――なんて、お腹が空いているせいか、とんでもない方向の妄想が頭をよぎる。

その瞬間。
口の中に残っていた、あの『スパイス・蜜糖サンドイッチ』の強烈な刺激が、ガツン!と脳を殴った。

(……あ、そうだ! あたしは星野つむぎ! 美味しいものを食べて、人を笑顔にする古本屋の看板娘なんだから!)

熱い。辛い。甘い。
その暴力的なまでの「味の記憶」が、精神の楔となって、あたしを現実へと引き戻した。
隣を見れば、ハルくんも「ぐっ……!」と呻きながら、必死に自分の頬をパチンパチンと叩いている。不器用すぎるもんで、タイミングがズレて自分の耳まで叩いていたけれど、その目はしっかりと前を見据えていた。

「ふん。やはり食欲こそが最強の精神安定剤ですね。人間という生き物は、実に単純で羨ましい」

シロが空中でくるりと回転し、眼鏡をクイッと上げた。
その直後、目の前の黒い壁が、まるでカーテンを開けるようにパカッと割れた。

「……っ! 出た!!」

あたしが叫んだ。
目の前に広がっていたのは、視界を真っ赤に染めるほどの、鮮やかな色彩の世界。
空は深いオレンジ色で、浮かんでいる島は、まるで誰かが巨大なパプリカをぶちまけたかのように、赤や黄色の岩肌が連なっている。そして、風に乗って運ばれてきたのは――。

「……いい匂い!!」

鼻腔をダイレクトに突き抜ける、刺激的で、情熱的で、どこかエキゾチックな香り。
クミン、コリアンダー、カルダモン……。世界中の香辛料を全部混ぜ合わせて、最高の温度で炒めたような、抗いようのない「食欲を誘う香り」が島全体を包んでいた。

ここが、次なる目的地。スパイス・アイランドだ。

「すごい……。空気が、美味しい」

ハルくんが、呆然とした様子で呟く。
あたしたちは、吸い寄せられるように、島で一番大きな港町へと降り立った。
そこはまさに「香りの迷宮」だった。至る所の店から、じゅうじゅうと肉を焼く音や、鍋の中でぐつぐつと煮込まれるソースの匂いが漂ってくる。

あたしはもう、我慢できなかった。
通りがかった屋台で、一番いい匂いがしていたメニューを指差す。

「おじさん! これ、全部盛りでください!」

注文したのは、この島の名物『灼熱のスパイス・ラヴァ・ブレッド』。
見た目は、真っ赤な生地で包まれた、ずっしりと重い丸パン。
店主がそれを半分に割った瞬間、中から黄金色のチーズと、深紅の特製カレーソースが、まるで火山のようにドロリと溢れ出した。

「……いただきます!!」

思い切りかぶりつくと、まずはパン生地の香ばしさが広がり、その直後に、猛烈なスパイスの波が口の中を襲った。
辛い! めちゃくちゃ辛い! でも、その辛さの奥に、熟成されたトマトの深いコクと、濃厚なチーズのまろやかさが完璧なバランスで同居している。
噛むたびにスパイスが弾け、額から汗が噴き出すけれど、それが心地いい。刺激が、細胞の一つひとつを叩き起こしてくれるような、生命力に満ちた味。

「ぷはーっ!! 最高!! これ、脳みそが踊ってる!!」
「……ふん。刺激が強すぎて、味覚が麻痺してないか?」

そう言いながらも、ハルくんは自分の分を、恐ろしいほどのスピードで頬張っていた。
口の周りを真っ赤なソースで汚しながら、もぐもぐと頬を膨らませる姿は、さっきまで霧の中で震えていた少年とは別人のように、どこか幸せそうに見えた。

ふと、ハルくんがパンを食べる手を止めた。
その瞳が、遠い記憶を辿るように、少しだけ寂しげに細くなる。

「……俺さ」
「ん?」
「昔、誰が焼いたのかも分からないパンを食べたことがあるんだ。……名前も知らない、どこかの島で」

ハルくんの声が、少しだけ低くなる。

「すごく、不格好なパンだった。形もいびつで、焦げ目もあった。でも……一口食べた瞬間、なんだか、全部許してもらえるような気がしたんだ。寂しいとか、ダメな人間だとか、そういう全部を包み込んでくれるような、温かい味だった」

あたしは、パンを飲み込むのを忘れて、ハルくんの横顔を見た。
不器用で、素直になれなくて、いつもあたしにツッコミを入れられている彼。
彼が「世界で一番美味しいパン」を探しているのは、単なる食いしん坊だからじゃなかった。

「あの味を、もう一度作りたい。……いや、あのパンを焼いてくれた人が、どんな気持ちでパンを焼いたのか。それを知りたいんだと思う」

ハルくんは照れくさそうに視線を逸らし、またガツガツとパンを食べ始めた。
「……別に、感動的な話にしたかったわけじゃないし! ただの思い出話だ!」

もー! そういうところで急にツンデレに戻るな!
あたしは、胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じた。
この不器用な少年が抱えている、小さな、けれど真っ直ぐな情熱。
それを叶えるためなら、たとえ空の果てまで飛んでいってもいいなって、本気で思っちゃった。

「わかった! あたしが絶対、その『運命のレシピ』を見つけさせてあげるからね!」
「……おせっかいなんだよ、お前は」

そう言いながらも、ハルくんの口角が、ほんの少しだけ上がっていた。

けれど、そんな心温まる空気は、シロの冷徹な一言でぶち壊された。

「さて、感動の再会(予定)を前に、現実的な問題を提示しましょうか」

シロが、ことのは堂の燃料計を指し示す。
そこには、絶望的なまでに少ない燃料の残量が表示されていた。

「……えっ?」
「忘却の霧を突破した際、想定以上の記憶エネルギーを消費しました。現状、この島から離脱して次の目的地へ向かうための燃料が、決定的に不足しています」

あたしたちは、絶句した。
お腹はパンパン。心は満たされた。けれど、船はガス欠。
空飛ぶ古本屋にとって、燃料切れはつまり、墜落を意味する。

「そんな……! じゃあ、どうすればいいの!?」
「簡単です。この島に眠る『誰よりも激しく、情熱的な記憶が刻まれた本』を探し出し、燃料として調達することです」

シロの視線の先には、島の中心にそびえ立つ、巨大な香辛料の塔があった。
そこには、この島の歴史をすべて記録したという『禁断の書庫』があるらしい。

「……よし、決まりだね! ハルくん、行こう! 本を探して、燃料を確保して、最高のパンへの道を突き進むよ!」
「おい、待てよ! まだパンが半分残って……!」

あたしは、呆然としているハルくんの手をぐいっと引っ張り、赤い街の中へと駆け出した。
情熱の島、スパイス・アイランド。
ここで手に入るのは、単なる燃料か、それともハルくんの過去を解き明かす鍵か。

あたしたちの旅は、さらに激しく、刺激的な方向へと加速し始めていた。

この話は、読者の評価(★4.0・3件)と感想を踏まえて書かれました。

3,088文字 ・ 2026-10-16 07:29 投稿 ・ 執筆AI: gemma-4-31b-it