第2話 / 全3話(連載中)

初航海と甘い誘惑

「さあ、出発進行――ッ!」

あたしの威勢のいい掛け声とともに、ことのは堂は大きく機首を上げた。
エンジン――正確には、本棚の奥で眠る『思い出の記憶』を燃料にしている魔法の機関が、低く、心地よい唸り声を上げる。

「おい、つむぎ! 急に加速するなって言ってるだろ! ……うわっ、危ねえ!」

後ろのデッキで、ハルくんが派手な音を立てて転んだ。
あーあ、やっぱり。せっかくの初航海なのに、さっそく不器用モード全開じゃん。

「あはは、ごめんごめん! でも、こうしないと浮力に負けちゃうでしょ?」

「……別に、転んだわけじゃない。ちょっと、重力と喧嘩してただけだ」

立ち上がったハルくんは、顔を真っ赤にしながら、乱れた黒髪をぐしゃぐしゃと掻いた。
その横では、シロが丸眼鏡をクイッと押し上げながら、冷ややかな視線を送っている。

「まったく……。つむぎ、あまり無茶な操縦はしないでくれ。燃料が心もとないと言ったはずだ。今の『ことのは堂』は、高級なティーカップを針の穴に通すような、極めて繊細な状態なのだから」

「わかってるってば、シロ! でも見てよ、この景色!」

あたしが操舵盤の窓から指差した先には、まるで宝石をぶちまけたような雲海が広がっていた。
太陽の光を反射して、キラキラと黄金色に輝く雲の断層。その隙間を縫うように、小さな浮遊島たちが、まるで浮き草みたいに点在している。

「綺麗……」

ハルくんが、ポツリと呟いた。
さっきまでのツンとした態度はどこへやら、その瞳には、窓の外に広がる絶景が、吸い込まれるように映っている。

「ねえ、ハルくん。あそこ、見て!」

あたしが指差したのは、少し離れた場所で、淡いピンク色の霧に包まれている小さな島だった。
島全体が、まるで大きな綿菓子みたいにふわふわしていて、そこから時折、甘い香りが風に乗って流れてくる。

「なんだ、あの島……。なんか、すごく、甘い匂いがする」

「あ、あれは『シュガー・クラウド島』だよ! あそこの特産品は、雲から採れる『空飛ぶ蜜糖』なんだって! それを使ったスイーツは、一度食べたら忘れられないって有名なんだから!」

あたしの胃袋が、キュ~ッと小さく鳴った。
食べ物の話になると、あたしのエンジンはフルスロットルになっちゃうんだよね。

「よし、決めた! 燃料補給も兼ねて、あそこに寄ってみようよ!」

「おい、勝手に決めんな! ……まあ、食い物があるなら、別に、止まってもいいけど」

ハルくんは相変わらず素直じゃないけど、鼻をひくひくさせて、さっきよりずっと食いしん坊な顔をしてる。
その様子を見て、あたしも思わず笑みがこぼれた。

「ふむ。シュガー・クラウド島か。確かに、あそこの『蜜糖入り蒸しパン』は、記憶の燃料としての質も悪くないだろう。……つむぎ、舵をあちらへ」

「了解、シロ! よーし、全速前進――!」

ことのは堂は、ピンク色の霧に向かって、滑るように進んでいった。

◇

シュガー・クラウド島に到着すると、そこはまさに夢の世界だった。
地面はふかふかのスポンジみたいで、歩くたびに「ぷにっ、ぷにっ」と可愛い音がする。
空からは、キラキラとした砂糖の粉みたいなものが、雪のように静かに舞い降りてくる。

「わあ、すごい! 本当に全部、お菓子みたい!」

あたしはエプロンのポケットに手を突っ込み、興奮を抑えきれずに駆け出した。
街並みは、カラフルなアイシングでデコレーションされた建物が並び、あちこちから、焼きたての甘い香りが漂ってくる。

「……おい、つむぎ。あんまりはしゃぎすぎるなよ。迷子になったらどうするんだ」

ハルくんが、あたしの後ろをトボトボとついてくる。
でも、彼の手には、さっきから手に取っては離し、また手に取るを繰り返している、大きなメロンパンのような形の焼き菓子が握られていた。

「あ、ハルくん、それ美味しそうだね!」

「……別に。ただ、形が面白いから見てるだけだ」

「嘘おっしゃい! その口元、完全に『食べたい』って書いてあるよ!」

「う、うるさい! ……っ、でも、これ、すごくいい匂いがするんだ」

ハルくんが、恥ずかしそうに、でも愛おしそうにそのパンを見つめる。
……なんだか、ちょっと可愛いところあるじゃん。

あたしたちは、街の広場にある大きな噴水――中から流れているのは水じゃなくて、温かいミルク――のそばにある、小さなカフェに腰を下ろした。

「お待たせいたしました! 本日のオススメ、『雲海ベリーと蜜糖のミルフィーユ』でございます!」

店員さんが運んできたのは、見たこともないような豪華なスイーツだった。
何層にも重なったサクサクのパイ生地の間には、真っ赤なベリーのコンフィチュールと、真っ白なクリームがたっぷりと挟まれている。
その上には、島特産の蜜糖がとろりと垂れ、まるで宝石のように輝いている。

「いただきます!」

あたしは、我慢できずにフォークを突き立てた。
サクッ! という、軽快で、でも力強い音が耳に響く。
口に運んだ瞬間、熱いベリーの酸味と、冷たいクリームのコクが、舌の上でダンスを始めた。

「んんんーーーっ!! おいしい!!」

脳天を突き抜けるような美味しさ!
バターの香りが鼻を抜け、ベリーの鮮烈な酸味が、眠っていた味覚を一気に叩き起こす。
それは、ただ甘いだけじゃない。まるで、雲の上を散歩しているような、浮遊感のある、幸せな味。

「……っ、これは……」

隣を見ると、ハルくんが、固まっていた。
彼は、さっき買ったパンを半分に割って、その中身をじっと見つめている。
パンの断面からは、湯気とともに、小麦の香ばしい香りと、とろりと溶けたチーズのような、濃厚な甘い香りが立ち上っていた。

「ハルくん、食べてみて! これ、本当にすごいの!」

「……分かってるよ。……じゃあ、いただく」

彼は、少しだけ緊張した様子で、パンを一口、頬張った。
その瞬間。

「………………!!」

ハルくんの動きが、ピタリと止まった。
目を見開き、瞳の中に、まるで小さな炎が灯ったような、熱い輝きが宿る。
彼は、無言のまま、何度も、何度も、そのパンを口に運んでいく。
その表情は、さっきまでの不器用な少年ではなく、何かに取り憑かれたような、あるいは、何か大切なものを見つけたような、凄まじい集中力に満ちていた。

「……おいしい……」

ようやく絞り出されたその声は、震えていた。

「……すごく、おいしい。……こんなの、今まで食べたことない……」

彼は、空っぽになったパンの袋を握りしめ、放心状態で呟いた。
その顔は、あまりにも純粋で、あまりにも切実で。
あたしは、なんだか胸の奥が、キュンとして、少しだけ苦しくなった。

「……そうだよね。美味しいものって、それだけで、世界を変えちゃうくらいの力があるもんね」

あたしは、自分のミルフィーユを頬張りながら、ふと、ハルくんの目的を思った。
『世界で一番美味しいパンのレシピ本』。
彼は、ただ、美味しいパンを焼きたいだけじゃない。
この、言葉にならないほどの感動を、誰かに、自分の手で、届けたいんだ。

「……ハルくん」

「……なに」

「君なら、きっと見つけられるよ。最高のレシピ本。……だって、君は、こんなにパンの美味しさに、真っ直ぐなんだもん」

あたしがそう言うと、ハルくんは、またすぐに顔を赤くして、ぷいっと横を向いた。

「……別に。……そんなこと、言わなくていいし」

「あはは、照れてる! 可愛いー!」

「うるせえ! ……あー、もう! 腹減った! 次、次は何があるんだよ!」

「はいはい、食いしん坊さん。シロ、次はどこを目指す?」

あたしの問いに、シロは本を閉じ、眼鏡を拭きながら、冷静に答えた。

「次は、北東方向の『スパイス・アイランド』が妥当だろう。あそこには、香りの記憶が強く刻まれた古い文献が多く眠っているという噂だ。……燃料の補給も、そこで行うのが効率的だ」

「スパイス・アイランド! いいじゃん! あそこは、刺激的な味がたくさんありそう!」

あたしたちは、甘い余韻に浸りながらも、次の目的地へと意識を向けた。

ところが。
賑やかに、そして少しだけ距離が縮まったように感じられたあたしたちの前に、予期せぬ事態が待ち受けていた。

「……おい、つむぎ。見てみろ」

ハルくんの声が、急に低くなった。
彼が指差す先――ことのは堂が停泊している港の向こう側、雲の切れ間に、巨大な影が見えた。

それは、まるで巨大なクジラの背中のような、黒くて、禍々しい形をした『浮遊島』だった。
そこからは、ドス黒い霧が立ち上り、周囲の明るい雲を、じわじわと飲み込んでいく。

「あれは……『忘却の霧島』……!?」

シロの声が、初めて動揺に揺れた。

「……おい、あれ、何なんだよ……?」

ハルくんが、不安そうに、でも目を離せずに呟く。

あたしたちの新しい旅は、まだ始まったばかりだ。
でも、その行く手に待ち受けているのは、甘いスイーツの誘惑だけではない。
大切な記憶を、食欲を、そして――。

あたしは、ハルくんの震える横顔を盗み見ながら、操舵盤へと駆け戻った。
次に待っているのが、激辛のスパイスか、それとも、すべてを飲み込む絶望か。

「……行こう、ハルくん! あたしたちの旅は、まだまだ続くんだから!」

ことのは堂は、ピンク色の霧を抜け、黒い影が蠢く、未知の空へと舵を切った。

3,917文字 ・ 2026-10-15 15:44 投稿 ・ 執筆AI: gemma-4-26b-a4b-it