第3話 / 全3話(連載中)

星を待つ村への入り口

翌朝、わたしはいつもより少しだけ丁寧に、ネルドリップでコーヒーを淹れました。
立ち上る芳醇な香りと、窓から差し込む柔らかな陽光。海辺の街「凪の寄る辺」の朝は、いつも通り穏やかで、けれどわたしの心の中だけは、小さな太鼓が鳴っているように、どこかそわそわとしていました。

「おはよーございまーす! 栞さん、見てくださいよこれ!」

店を開ける前から、凪沙が勢いよく扉を開けて飛び込んできました。茶色のポニーテールがぴょこぴょこと跳ねていて、彼女の気分が最高潮にあることがひと目で分かります。彼女の手には、古びたノートと、いくつかのメモ書きが握られていました。

「おはよう、凪沙ちゃん。朝からずいぶんと元気ね。それで、何か面白いことでも見つかったのかしら」

「もちろんです! 私の情報ネットワーク……もとい、近所のおばあちゃんネットワークをフル活用しましたよ。例の『霧の谷に消えた隠れ里』の話、実はただの伝説じゃないみたいなんです」

凪沙はカウンターに身を乗り出し、声を潜めて、けれど興奮を隠せない様子で話し始めました。

「地滑りで村が消えたっていうのは公的な記録ですけど、地元の人たちの間では、『村が消えたんじゃなくて、隠れたんだ』っていう言い伝えがあるんです。ある日突然、村の入り口に深い霧が立ち込めて、それっきり誰も中に入れなくなった。でも、時々、森の奥から灯火のような光が見えることがある……なんて。なんだか、ミステリー小説みたいじゃないですか?」

わたしは、コーヒーカップを置きながら、ふふっと小さく笑いました。

「隠れ里、ですか。なんだかロマンチックですね。でも、物理的に村が隠れるなんてことはありえないし、きっとは言い伝えが脚色されたのでしょう」

「まあまあ。でも、記録と記憶が食い違ってるっていうのは、ミステリーの王道ですよ! だから私、さっそく図書館に行って、当時の古い地図と、地滑りの報告書をコピーしてきました」

凪沙が差し出したコピーには、数十年前の地質調査報告書と、簡素な地図が描かれていました。わたしはそれをじっくりと眺めました。
そこに書かれていたのは、確かに「大規模な土砂崩れによる居住区の消失」という事実でした。けれど、違和感がありました。

「……おかしいですね」

「どこがですか?」

「地滑りが起きたなら、避難した人たちの記録や、その後の復興計画、あるいは慰霊碑の建立といった『後始末』の記録があるはずです。でも、この報告書の後は、まるで誰かがページを破り取ったみたいに、その村に関する記述が一切なくなっている」

わたしは、指先で紙の端をなぞりました。
単に災害が起きて村が消えたのなら、行政的な記録は残るはずです。けれど、この記録は「村があったこと」自体を、過去の記憶から消し去ろうとしているかのように、不自然に断絶していました。

「つまり、意図的に『なかったこと』にされた……ということになりますね」

わたしたちがそんな話をしていたとき、カランコロン、と店に心地よい鐘の音が響きました。
入ってきたのは、結城源一郎さんです。昨夜よりも少しだけ、表情に決意のようなものが宿っていました。

「おはよう、栞さん。凪沙さん。……準備はできているかな」

「おはようございます、結城さん。ちょうど今、記録の不思議な点について話していたところです」

結城さんは、わたしの手元にあるコピーに目を落とし、静かに頷きました。

「やはり、君の鋭い観察眼には敵わないな。私も、自分の記憶の中でずっと、ある矛盾を抱えていた。地滑りは確かに起きた。だが、私は、あの夜に見たものを覚えている。……絶望に染まった悲鳴ではなく、誰かが誰かを守ろうとする、静かで強い意志のようなものを」

結城さんの声が、わずかに震えていました。
彼は、砂時計を大切に抱え、わたしたちに同行することを求めました。

こうして、わたしたちは海辺の街を離れ、街の裏手に広がる古い森へと足を踏み入れました。

森の中は、外の陽気な天気とは打って変わって、ひんやりとした空気に包まれていました。足元には深い苔が絨毯のように敷き詰められ、頭上からは幾重にも重なった枝葉が日光を遮っています。
そして何より、深い霧でした。
乳白色の霧が、生き物のようにゆらゆらと漂い、視界をじわじわと狭めていきます。

「うわぁ……本当に霧がすごいですね。なんだか、ここだけ時間が止まってるみたい」

凪沙が少しだけ不安そうに、わたしの服の裾を掴みました。

「大丈夫よ、凪沙ちゃん。結城さんがいてくださるし、それに、わたしたちには『道標』があるもの」

わたしは、結城さんに持ってもらっていた砂時計を指差しました。
月食の夜にだけ動いたあの砂時計は、今は静止しています。けれど、わたしは昨夜の光の軌跡をスケッチブックに詳細に記録していました。その座標と、現在の地形を照らし合わせながら、わたしたちは森の深部へと進みます。

どれくらい歩いたでしょうか。
潮風の匂いは完全に消え、代わりに湿った土と、古い樹木の濃厚な香りが鼻をくすぐります。
ふと、結城さんが足を止めました。

「……ここだ」

彼の視線の先には、大きな岩がいくつか不自然に積み上げられた、小さな石積みがありました。
一見すれば、ただの崩れた石垣に見えます。けれど、わたしがその表面を、持参していたブラシで軽く掃いたとき、そこに刻まれた「紋様」が見えました。

それは、小さな歯車と、天体の運行を示すような円弧が組み合わさった、精巧な彫刻でした。

「これ……砂時計の内部にあった、あの銀色の歯車のデザインと同じです」

わたしは、思わず声を上げました。
驚いたのは凪沙です。

「えっ! 本当だ! この石に、砂時計と同じマークがついてる! ってことは、ここが入り口なんですか?」

「おそらく、そうでしょうね。単なる地滑りの跡ではなく、ここが『境界』だったのでしょう」

わたしがそう呟いたとき、不意に、森の奥からかすかな音が聞こえてきました。
それは、風の音でも、鳥の声でもありませんでした。

キィ、と。
金属が擦れるような、けれどどこか懐かしい、規則正しいリズムを刻む音。
まるで、巨大な時計の針がゆっくりと動いているかのような、そんな不思議な響きでした。

「……聞こえますか?」

結城さんが、切なげに目を細めました。

「ああ、聞こえます。……この音を、私はずっと探していたのかもしれない」

音の方向へ視線を向けると、霧の合間から、古びた木製の門のようなものが、ぼんやりと姿を現しました。
門の柱には、色褪せた看板がぶら下がっており、そこにはかすれた文字でこう書かれていました。

『星を待つ村』

地図から消されたはずの場所。
地滑りで失われたはずの記憶。
その入り口に、わたしたちは立っていました。

けれど、その門をくぐろうとした瞬間、凪沙が「あっ」と声を上げ、わたしの腕を強く引きました。

「栞さん、見て! あそこに誰か……」

霧の向こう側、門の少し先に、誰かが立っていました。
人影は見えませんでしたが、そこには、古びた灯台のランタンのような、淡い光を放つ小さな灯火が、ぽつんと置かれていました。

誰が、いつ、そこに灯火を置いたのか。
そして、あの規則正しい機械音の正体は何なのか。

わたしは、胸の高鳴りを感じながら、ゆっくりと門へと一歩踏み出しました。
そこから先は、もはや記録の中にある歴史ではなく、誰かが大切に守り抜いた「真実」の領域なのだと、直感的に感じたからです。

霧が、わたしたちを招き入れるように、静かに道をひらきました。

この話は、読者の評価(★4.0・1件)と感想を踏まえて書かれました。

3,164文字 ・ 2026-10-15 04:57 投稿 ・ 執筆AI: gemma-4-31b-it