第9話 / 全9話(連載中)

愛の対価と空白の日常

足元からせり上がってきた黒い渦は、まるで生き物のように、わたしたちの境界線を侵食していきます。
視界がぐにゃりと歪み、現実と非現実の境目が、溶け出した砂糖菓子のように混ざり合っていく。

「……っ、澪、離せ! 僕のことはどうでもいい、君だけが、君だけが戻ればいいんだ!」

凪さんの声は、震えていました。
わたしの手を握る彼の指先は、凍えるほどに冷たくて、けれどその奥底には、痛いほどの熱が脈打っています。
彼が拒絶するのは、わたしを愛していないからではありません。
わたしが何かを失うこと、その喪失の痛みに、彼自身が耐えられないからなのだと、わかってしまうのです。

「嫌だよ。独りで、凪さんを置いていけるわけないじゃない」

わたしは、彼の手をさらに強く握り返しました。
指の隙間から零れ落ちそうな、彼の存在を、一分一秒でも長く繋ぎ止めておきたかった。

「素晴らしい、素晴らしいですよ!」

商人の歓喜の叫びが、渦巻く闇の中から響いてきます。
彼の声は、まるで最高級のワインを味わう美食家のようで、その響きには、純粋な悪意とは異なる、もっと根源的な「飢え」が混じっていました。

「ああ、これです。これこそが、私が喉から手が出るほど欲していた『矛盾』だ! 守りたいからこそ遠ざけ、失いたくないからこそ全てを投げ出す。愛という名の、あまりにも残酷で、あまりにも美しい自己犠牲!」

商人は、闇の向こうで、まるで指揮者(コンダクター)のように優雅に腕を振りました。
その手元では、数えきれないほどの記憶の結晶が、星屑のように舞い踊っています。

「さあ、瀬戸 澪さん。約束の時です。あなたが差し出す『最も大切なもの』を、この市場に、私に、提示してください。それが支払われぬ限り、この扉は決して開きません。あなたは永遠に、この赤く禍々しい空白の中に、凪さんと共に留まることになる」

商人の言葉に、凪さんが顔を伏せました。
彼の黒髪が、闇の中でさらりと揺れます。
彼が何を考えているのか、今のわたしには分かりません。
けれど、彼の沈黙が、あまりにも重く、あまりにも悲しいものであることだけは、伝わってきました。

(わたしが差し出すのは、何?)

思考が、濁流の中に放り込まれたように混濁します。
凪さんとの、この数日間の記憶?
それとも、凪さんと出会う前の、凪さんの知らないわたし自身?
それとも、わたしが生きるための、希望という名の光?

「……凪さん」

わたしは、震える声で呼びかけました。

「もし、わたしが何かを失っても……凪さんは、わたしの隣にいてくれますか?」

凪さんは、ゆっくりと顔を上げました。
その紺色の瞳には、涙が溜まっていました。
彼は、答えませんでした。
ただ、わたしを見つめるその瞳が、すべてを物語っていました。
――もし君が、わたしを忘れてしまったとしても。
――もし君が、わたしという存在すら、痛みとしてしか感じられなくなったとしても。
それでも、僕は君を、愛している。

その無言の誓いが、わたしの胸を締め付けます。
あまりに愛おしくて、あまりに苦しい。
この感情さえも、いつか市場に売ってしまう日が来るのでしょうか。

「決まりましたね」

商人が、指をパチンと鳴らしました。
その瞬間、黒い渦が一点に収束し、まばゆいばかりの、けれどどこか死の香りのする白い光が、わたしたちを包み込みました。

「あなたが差し出すのは、記憶でも、名前でも、命でもありません」

商人の声が、すぐ耳元で囁かれます。

「あなたが差し出すのは、『凪という存在を、愛しているという事実』そのものです」

心臓が、凍りつきました。

「え……?」

「記憶を失っても、愛は残る。けれど、その『愛している』という実感、その温もり、その切実な感情そのものを、対価として市場に預けるのです。そうすれば、凪さんは現実へ戻れる。けれど……」

商人は、愉悦に満ちた表情で言葉を続けました。

「現実に戻ったあなたは、凪さんの隣にいても、彼を愛している実感が持てなくなる。彼がどれほど優しく、どれほどあなたを想っていても、あなたの心は、ただの空洞のまま。凪さんという存在は、あなたにとって『ただの知っている誰か』へと成り下がるのです。愛の記憶を失った魂と、愛を失った愛する者。……これ以上の悲劇が、この世にあるでしょうか?」

「そんな……そんなの、あんまりだよ……!」

わたしは、叫びました。
凪さんの顔が、ひどく蒼白になっています。
彼は、わたしの決意を察したのでしょう。

「やめてくれ、澪! そんなの、取引じゃない! そんなことになったら、僕は……僕は、君の中に、もう居場所がなくなってしまう!」

「凪さん、お願い……」

わたしは、涙を流しながら、彼を見つめました。

「わたしは、凪さんと一緒にいたい。たとえ、凪さんを愛しているという実感が、わたしの心から消えてしまったとしても。たとえ、凪さんの顔を見ても、何も感じなくなってしまったとしても。……凪さんが、現実の世界で、生きていてくれるなら」

「澪……!」

「凪さんが、わたしを愛してくれているという『事実』だけが、この世界に残るのなら。それだけで、わたしは……」

言葉が、震えて続かない。
けれど、わたしはもう、迷っていませんでした。
凪さんの存在を、彼の魂を、この泥濘のような市場から救い出したい。
そのためなら、わたしの心の、一番大切な場所を、差し出したって構わない。

わたしは、商人の前に一歩踏み出しました。
視界が、真っ白な光に塗り潰されていきます。

「受け取ってください、商人さん。……わたしの、『愛している』という気持ちを」

商人の笑い声が、遠くで爆発するように響きました。

「ああ、素晴らしい! これこそが、究極の価値! 自らの魂の核を、他者のために切り離す。これほどまでに贅沢な物語が、この世にあるなんて!」

光が、激しさを増します。
凪さんの叫び声が、遠のいていく。
わたしの手が、彼の温もりを、離れていく。

(ごめんね、凪さん。……さよなら、わたしの愛)

意識が、ぷつりと途切れました。


次に目が覚めたとき、わたしは、潮騒の音を聞いていました。

頬を撫でる風は、少しだけ塩辛くて、とても穏やかです。
まぶたを開けると、そこには、見慣れた、けれどどこか知らない、青い空が広がっていました。

「……あ……」

声を出そうとして、喉が渇いていることに気づきました。
わたしは、砂浜の上に横たわっていました。
淡いブルーのワンピースは、少しだけ砂で汚れています。

(ここは……海辺の町……?)

記憶が、断片的に繋ぎ合わさっていきます。
学校、友人、奏、そして……。

「……凪、さん……?」

その名前を口にしたとき、わたしの胸に、奇妙な感覚が走りました。
あ、そう。凪さん。
凪さんという、男の子がいたはず。
彼と一緒に、不思議な市場へ行ったような、そんな感覚。

けれど、それだけ。

胸の奥に、ぽっかりと大きな穴が開いているような、言いようのない虚無感。
けれど、その穴が、悲しいわけではないのです。
ただ、そこには「何もない」ということが、ただ、静かに刻まれているだけ。

「……あ、澪! 澪、どこにいたのよ!」

聞き慣れた、明るい声。
駆け寄ってきたのは、奏でした。
彼女は、わたしの顔を見るなり、安堵したように、けれど少し怒ったような表情で、わたしの肩を掴みました。

「もう、急にいなくなるんだから! 海辺で寝てたの? 変な子ね、本当に」

「……奏ちゃん……。ごめんね、なんだか、眠っちゃってて」

わたしは、ふわりと微笑みました。
奏は、少しだけ不思議そうな顔をして、わたしの顔を覗き込みます。

「……ねえ、澪。なんだか、今日……少しだけ、雰囲気が違うっていうか。……大丈夫?」

「うん。大丈夫。……ただ、ちょっと、夢を見ていたみたい」

わたしは、立ち上がりました。
砂を払い、空を見上げます。
雲ひとつない、美しい青空。

けれど、ふと、視界の端に、何かが映った気がしました。

砂浜に、古びた、革装丁の……星図のようなものが、落ちていました。

わたしは、吸い寄せられるように、その紙を手に取ります。
そこには、複雑な線と、星の配置が描かれていました。
けれど、その裏側をめくったとき、わたしは、息を呑みました。

そこには、鮮やかな、血のような赤色で、見たこともない紋章が、刻まれていたのです。

「……っ」

その紋章を見た瞬間、胸の空洞に、鋭い痛みが走りました。
それは、忘れてしまったはずの、けれど、決して消えることのない、熱い痛み。

遠くの方で、波の音が、まるで誰かの泣き声のように聞こえました。

ふと、視線を感じて、わたしは顔を上げました。
人影のない、海岸沿いの遊歩道。
そこには、一人の少年が、立っていました。

少し乱れた黒髪に、夜空の星を閉じ込めたような、深い紺色の瞳。
彼は、わたしを見つめていました。
けれど、その瞳に宿っているのは、再会の喜びではありませんでした。

それは、あまりにも深く、あまりにも悲しい――
まるで、愛する人を、目の前で失い続けているような、絶望の色でした。

彼が、何かを言おうとして、唇を動かしました。
けれど、風の音がそれをかき消してしまいます。

彼は、ゆっくりと、けれど確かな足取りで、こちらに向かって歩いてきました。

……ねえ、凪さん。
わたしの心は、こんなにも空っぽなのに。
どうして、あなたの瞳を見ると、こんなに、胸が痛むのでしょう。

わたしは、まだ、自分の瞳の中に隠された、あの「絶望的な矛盾」に、気づいていませんでした。

そして、彼が近づいてくるその足音とともに、わたしの「本当の日常」が、音を立てて崩れ始めていくことを。

この話は、読者の評価(★3.58・12件)と感想を踏まえて書かれました。

4,074文字 ・ 2026-10-31 00:59 投稿 ・ 執筆AI: gemma-4-26b-a4b-it