第3話 / 全3話(連載中)

忘却の書と黄金のレシピ

「ちょっと! あたしのパンに誰が泥を塗ろうとしてるのよ!!」

あたしは反射的に、手に持っていたフライパンを武器にして、その黒い本に全力でツッコミを入れた。……って、いやいや! ツッコミっていうか、これ、物理的な攻撃になっちゃってるじゃない! あたし、灯台の管理人であって、格闘家じゃないんだからね!?

ガシャンッ! と、不器用な音を立ててフライパンが黒い表紙に当たった。
けれど、その本はまるで生き物みたいに、ひらひらと空中で身をかわした。

「なっ……!?」

「凪さん、下がってください! それは――」

シオンさんの鋭い声が響く。
その直後、真っ黒な本が、まるで怒った猛獣みたいに、ガサガサとページを激しくめり合わせた。
「バサバサバサッ!!」という、不穏な音がキッチンの空気を切り裂く。

その本からは、さっきの黄金色の輝きとは真逆の、ドロリとした紫色の霧が溢れ出していた。
霧が触れた場所が、まるでインクをこぼしたみたいに黒ずんでいく。
「うわわっ、やめてよ! あたしのピカピカのキッチンが!」

「凪さん、危ない!」

カイトくんが、あたしのオーバーオールの裾をぐいっと引っ張った。
間一髪、あたしとカイトくんはオーブン台の陰に身を隠す。
そのすぐ目の前を、あの黒い本が、猛スピードで通り過ぎていった。

「……あれは、『忘却の書』の一種です」

シオンさんが、眼鏡の奥の瞳を険しくして、低く呟いた。
「人々の幸せな記憶が、強い喪失感や絶望によって上書きされ、『食べられなくなった記憶』として澱(おり)のように沈殿したもの……。それが、図書館の秩序を乱し、実体化してしまったのでしょう」

「食べられなくなった……記憶?」

あたしは思わず、さっき焼き上がったばかりの黄金の蜂蜜パンを振り返った。
パンからは、まだ幸せな香りが立ち上っている。
でも、そのすぐ隣を、あの黒い塊が、まるでその香りを否定するように通り過ぎていったんだ。

「……なんだか、すごく悲しい匂いがする」

カイトくんの声が、震えていた。
「さっきのパンの匂いとは全然違う。……泥みたいで、冷たくて、喉の奥がギュッとなるような……」

カイトくんの鼻は、あたしの想像を絶するほど鋭い。
彼がそう言うと、あたしにも分かった。
さっきまでの、甘くて温かい、お日様のような香りが、黒い霧に侵食されて、どんどん濁っていくのが。

「……そんなの、放っておけないよ」

あたしは、震える手でフライパンを握り直した。
灯台の管理人として、この場所を守るって決めたんだ。
そして、せっかく一生懸命作った、この『幸せの味』を、あんな不気味なものに汚させるわけにはいかない!

「シオンさん、あれをどうすればいいの!?」

「……料理、ですか」

シオンさんは、一瞬、困惑したような表情を見せた。
「……本来、このような事態は封印によって解決すべきものですが……。今の図書館の不安定な状態では、封印の儀式すら、あの黒い本に飲み込まれる恐れがあります」

彼は、一度言葉を切って、あたしをまっすぐに見つめた。

「凪さん。あなたの『レシピ』が、もしあの淀んだ記憶を、再び『幸せな記憶』へと書き換えることができるのなら……。それは、この図書館にとって唯一の救いになるかもしれません」

「書き換える……? あたしの料理で?」

「ええ。記憶を、再び『味わえる形』に戻すのです」

シオンさんの言葉は、まるで難解な専門書の一節みたいに重かったけれど、あたしの心には、不思議な熱が灯った。
料理が、ただのお腹を満たすものじゃない。
記憶の形を変える力があるなんて。

「よし、決めた! あたし、やってみるよ!」

あたしは、カイトくんの肩をポンと叩いた。
「カイトくん、ごめんね。さっきのパン、まだ全部食べられないけど、もう少しだけ待ってて! 最強の『お直しレシピ』、作ってあげるから!」

「……凪さん、かっこいい!」

カイトくんが、瞳をキラキラさせてあたしを見上げる。
その顔を見たら、怖がりなんて言っていられない。

「シオンさん、指示をちょうだい! あの黒い本を、どうやって『美味しく』すればいいの!?」

「……指示、ですか。……困りましたね。レシピには『悲しみ』の成分は記載されていません」

シオンさんは、困ったように眉を下げたけれど、その口元には、ほんの少しだけ、信頼の色が混じっていた。

「ですが、凪さん。もし、その悲しみが『かつては幸せだったもの』の残骸であるならば……。対照的な要素、つまり『誰かを想う温もり』を、極限まで高めた味覚で包み込むことが、唯一の解かもしれません」

「対照的な要素……。温もり、ね」

あたしは、キッチンを見渡した。
使い込まれたフライパン、蜂蜜の入った瓶、そして、まだ温かいオーブン。

「わかった! レシピは、あたしが作る! シオンさんは、あの本が暴走しないように、図書館の動きを抑えてて!」

「……承知しました。全力でサポートしましょう」

シオンさんが、司書服の裾を翻して、地下へと駆け出していく。
カイトくんは、あたしの横で、まるで助手みたいに「次はこれを使うの!?」「あ、それも入れるの!?」と、騒がしく、でも頼もしく動き回ってくれた。

「さあて、作戦開始だよ!」

あたしは、再びコンロに火をつけた。
今度は、ただのパン作りじゃない。
黒い霧を、黄金の光で包み込むための、特別な調理だ。

まずは、ベースとなる「優しさ」を固めなきゃ。
あたしは、冷蔵庫から、少しだけ酸味のあるクリームチーズを取り出した。
これに、カイトくんがさっき言っていた「懐かしい匂い」の正体を探るために、隠し味が必要だ。

「カイトくん、あの黒い本から漂う、あの『悲しい匂い』……。どうしてそんなに切なくなるのかな?」

カイトくんは、少し考え込んで、それからぽつりと答えた。

「……一人ぼっちで、冷たい場所で、誰かが来るのをずっと待っているような……そんな匂いがするんだ」

「……一人ぼっち、か」

あたしの胸の奥が、キュッとなった。
それは、あたしが灯台に来たばかりの頃に感じた、あの心細さに似ていた。

「よし、決めた! レシピの隠し味は、『再会』だよ!」

「……再会、ですか?」

シオンさんが、どこからともなく戻ってきて、不思議そうに尋ねる。

「そう! 誰かと会えた時の、あの、心臓が跳ねるような、でも、すごく安心するような……あの感覚を、味にするの!」

あたしは、ボウルにクリームチーズを叩き入れた。
そこに、少しだけ蜂蜜を足して、さらに、カイトくんが持ってきた「特別なスパイス」を加える。
それは、街の市場で見つけた、名前も知らない、でも、どこか懐かしい香りのするドライフルーツだった。

「……凪さん、それ、本当に大丈夫なんですか?」

「大丈夫だってば! あたしの直感は、灯台の明かりより正確なんだから!」

フライパンを振る音、スパイスの香りが弾ける音。
キッチンは、さっきまでの混乱が嘘のように、再び「料理の戦場」へと変わっていった。

あたしは、一心不乱に、新しい生地を練り上げる。
真っ黒な本が、キッチンの隅で、まだ不機嫌そうにページをめくっているけれど、あたしはもう、怖くない。

だって、あたしの手には、この世界で一番温かい「味」があるんだから!

「いくよ、カイトくん! シオンさん! ……『悲しみを溶かす、黄金のハニー・リベンジ・パン』、完成まで、あと少し!」

窓の外では、灯台の光が、海を静かに照らしている。
けれど、地下のキッチンでは、今まさに、新しい物語が、熱い蒸気と共に立ち上がろうとしていた。

「……ふふ、なんだか、お腹が空いてきちゃった」

カイトくんの小さな呟きに、あたしは力強く頷いた。

「当たり前でしょ! 最高に美味しいんだから、覚悟してなさいよ!」

あたしは、フライパンを構え直し、黄金色に輝き始めた生地へと、渾身の勝負を挑むべく、火力を強めた。

この話は、読者の評価(★3.33・3件)と感想を踏まえて書かれました。

3,312文字 ・ 2026-10-13 04:37 投稿 ・ 執筆AI: gemma-4-26b-a4b-it