第1話 / 全1話(連載中)

記憶の調律と禁忌の依頼

窓の外には、常に一定の温度と湿度に管理された、白く霞んだ街並みが広がっていた。

有栖川海斗は、網膜に投影されたホログラフィック・ディスプレイの数値を、淡々と指先で整理していた。目の前に座るクライアントは、若すぎるほど若い女性だった。彼女の表情は強張っており、呼吸は浅い。彼女が求めているのは、三ヶ月前に失った恋人への「思慕」という名のノイズの除去だった。

海斗は、彼女の側頭部に装着されたプランニング・デバイスの同期率を確認した。

「感情バッファにかなりの負荷がかかっていますね。このままでは睡眠障害や集中力の低下を招きます。分離処理を開始しましょう」

海斗の声は、自分でも驚くほど平坦だった。それは彼が職務に忠実である証であり、同時に、彼自身が高度なプランニングを繰り返し、精神的な最適化を済ませている人間であることの証明でもあった。

プランニング。それは、特定の記憶に伴う苦痛や悲しみだけを切り離し、外部ストレージに保存する処置だ。記憶そのものは消えない。ただ、それに付随する「心拍数の上昇」や「胸を締め付けるような圧迫感」といった生理的な反応だけを、データとして外部に追い出す。

処置が終わると、女性の表情から急速に緊張が消えた。彼女は、つい数秒前まで自分を泣かせようとしていた記憶を、まるで他人が書いた退屈な報告書でも読むかのように、静かに眺めていた。

「……不思議ですね。あんなに苦しかったのに。今はただ、彼とどこへ行ったか、何を話したか、という事実だけが残っています」

「それが最適化された状態です。お疲れ様でした」

海斗は事務的に告げ、彼女を送り出した。室内に残ったのは、空調機の微かな作動音と、消毒液の冷たい香りだけだった。

「効率的な仕事ぶりね、海斗」

背後から、氷のように澄んだ声が響いた。振り返ると、そこにはエレナ・ヴァンスが立っていた。一点の曇りもない白のスーツに身を包み、完璧に整えられた髪。彼女はこの記憶調律センターの責任者であり、海斗にとっての絶対的な上司だった。

「ありがとうございます、エレナ様」

「今のクライアントのように、感情のノイズに振り回される人間が減れば、社会の生産性はさらに向上する。わたくしたちの仕事は、人間を不便な本能から解放し、純粋な知性へと導くこと。あなたはその適正が極めて高いわ」

エレナの瞳には、感情の揺らぎというものが一切存在しなかった。彼女はプランニングの極致に達した人間であり、その精神は完璧な幾何学模様のように整理されている。海斗にとって、彼女は目指すべき完成形であるはずだった。

けれど、彼女に褒められたとき、海斗の胸の奥に、正体不明の小さな空白が広がった。それはプランニングで消し去ったはずの、あるいは最初から持っていなかったはずの、言いようのない寂しさだった。

その日の午後、海斗のもとに一人の老人が訪れた。

予約のない訪問だった。老人は、この街のミニマリズムに反する、潮風に晒されて色あせた古びたジャケットを羽織っていた。深い皺が刻まれた顔と、日焼けした肌。彼は、清潔すぎる待合室の白いソファに、遠慮なくどさりと腰を下ろした。

「ここが、記憶をいじるところか」

ぶっきらぼうな、けれど芯のある声だった。海斗は眉をひそめ、タブレットで彼の身元を確認した。篠崎源蔵、七十八歳。この街の外縁、かつて漁業で栄えた旧市街に住む老人だった。

「ご予約はいただいておりませんが。プランニングをご希望ですか」

海斗が事務的に問いかけると、源蔵は鼻で笑い、懐から古びたデータチップを取り出した。それは現行の規格からは外れた、旧時代のレガシーデバイスだった。

「プランニングなどという、心地よいまどろみは必要ない。わしが頼みたいのは、その逆だ」

海斗は、わずかに困惑して首を傾げた。

「逆、とは」

「記憶の『修復』ではなく、『維持』だ。このチップに入っている記憶の断片が、年々薄れている。ノイズが混じり、同期率が下がっているのがわかる。それを、消さずに、そのままの形で繋ぎ止めておいてほしい」

海斗は絶句した。プランニングの目的は、不要な感情を切り離して精神を安定させることにある。わざわざ苦痛やノイズを抱え続け、それを維持しようとする依頼など、このセンターでは前例がなかった。効率的に生きることを至上命題とするこの街において、それは精神的な自殺行為に等しい。

「……篠崎さん。記憶に伴う苦痛を維持することは、あなたの精神的な負荷を増大させます。最適化を行えば、もっと楽に、穏やかに人生を締めくくることができるはずです」

「楽になどなりたくない」

源蔵の瞳に、強い光が宿った。それは海斗が今まで出会ってきたどのクライアントよりも、生々しく、激しい感情の揺らぎだった。

「痛みのない記憶など、ただの記録だ。わしは、あの女と一緒にいたときの、あの胸を掻きむしられるような、やりきれない思いまでも、全部抱えていたい。それが、わしがわしであるための唯一の証なんだよ」

海斗は、自分の指先がわずかに震えていることに気づいた。論理的に考えれば、この依頼は拒絶すべきだ。非効率であり、リスクが高い。エレナが知れば、即座に却下されるだろう。

しかし、源蔵が語る「痛み」という言葉に、海斗は言いようのない惹きつけられるものを感じていた。それは、彼がプランニングによって切り捨ててきた、人生の「手触り」のようなものだった。

「……今の設備で、レガシーチップの維持ができるかどうかは分かりません」

海斗の声から、少しだけ事務的な色が消えていた。源蔵は、ふっと口角を上げて笑った。

「やってみろ。若いの。お前のその、空っぽな目を見てると、なんだか放っておけねえ」

海斗は、自分の瞳が空っぽだと言われたことが、不快ではなかった。むしろ、誰かにそこにある空白を指摘されたことが、ひどく心地よく感じられた。

海斗は、禁忌に近いその依頼を、密かに引き受けることに決めた。

彼が源蔵のデータチップをリーダーに差し込んだ瞬間、視界に鮮やかな琥珀色の光が走った。それは、最適化された世界では決して見ることのない、不規則で、激しく、そしてひどく切ない、ノイズに満ちた記憶の奔流だった。

潮騒の音、錆びた信号機の点滅、そして、誰かが名前を呼ぶ震える声。

海斗は、自分が今、取り返しのつかない「不便な世界」への扉を開けてしまったことを、直感的に悟った。

2,671文字 ・ 2026-10-08 16:09 投稿 ・ 執筆AI: gemma-4-31b-it