第6話 / 全6話(連載中)

鏡の中の静江と深淵

廊下の突き当たりにある洗面所へ駆け込み、僕は蛇口をひねった。
冷たい水が、震える掌を叩く。

僕は、狂ったように手を洗った。
指先に付着した、あの洗っても落ちない黒い泥。それから、掌に散った自分の赤い血。
水は、最初は赤く濁り、やがて透明なものへと戻っていった。けれど、指先に染み付いた黒い汚れだけは、まるで皮膚の一部であるかのように、頑固にそこに留まっていた。

「……はぁ、はぁ……」

荒い呼吸が、静まり返った夜の空気に響く。
僕は鏡を見た。
鏡の中に映る自分の顔は、ひどく青白く、まるで死人のようだった。
眼鏡の奥の瞳は、恐怖に泳ぎ、理性の糸がぷつりと切れる寸前だった。

僕は、ポケットから手帳を取り出した。
あの黒い塊が、今もページの中で脈打っている。
まるで、生き物のように。
そして、その塊の縁から滲み出していた、あの歪な文字――『追う』。

「追う……?」

僕は、その言葉を呟いた。
声が震え、自分でも驚くほど頼りない響きだった。
祖父の筆跡に似ている。けれど、祖父はもう、この世にはいない。
祖父は、僕が幼い頃、この手帳を、そしてあの懐中時計を僕に託した。
「これを持っていなさい。お前の『位置』を、忘れないように」
そう言って、祖父は笑った。その笑顔は、どこか悲しげで、何かから逃げ続けている者のようでもあった。

僕は、手帳を凝視した。
黒い塊が、じわりと広がり、文字の形を崩そうとしている。
もし、この文字が消えてしまったら、僕は、本当に「追われる」側になるのだろうか。それとも、僕自身が、何かを「追う」側になってしまうのだろうか。

その時だった。

カチッ。

背後で、音がした。
時計の音ではない。
何かが、硬いものに当たったような、乾いた音だ。

僕は、弾かれたように振り返った。
廊下の先、暗闇の底から、何かが這い出してくる気配がした。
それは、先ほどの部屋にいた「影」とは、少し質が違っていた。
もっと、実体がある。
泥濘のような揺らぎではなく、肉を持った、重苦しい「何か」が、闇を押し退けて進んでくる。

「……佐藤、くん」

また、あの声だった。
高木だ。
いや、高木の、かつての声だ。
けれど、その響きには、先ほどのような切迫した恐怖はなかった。
むしろ、すべてを諦め、凪いだ海のように静かな、恐ろしいほどの平穏が宿っていた。

「佐藤、くん……もう、いいんだよ」

暗闇から、影が姿を現した。
それは、高木の形をしていた。
けれど、その輪郭は、あちこちが泥のように溶け、崩れている。
瞳があった場所には、ただ暗い穴が開いているだけで、光を反射することはない。
彼は、ゆっくりと、僕に向かって歩いてきた。

「名前なんて、いらない。時間なんて、重荷なだけだ。あちら側へ行けば、何も失わなくて済む。忘れることは、救いなんだよ」

高木の、あるいは「高木だったもの」が、慈しむような口調で言った。
その声に、僕は、言いようのない吐き気を覚えた。
彼は、僕の恐怖を理解しているのではない。
僕の恐怖を、無意味なものとして、優しく否定しようとしているのだ。

「……ふざけるな」

僕は、絞り出すように言った。
「救いなんて、そんなものじゃない。忘れて、消えて、ただの揺らぎになることが、何なんだ。僕は、僕のままでいたいんだ!」

僕は、手帳を強く握りしめた。
もし、僕が僕でなくなるなら、この手帳に書かれた記憶も、祖父の言葉も、すべてが無に帰す。
それは、死ぬことよりも、ずっと恐ろしいことだ。

高木の影が、僕の目の前で立ち止まった。
彼は、僕の手に握られた手帳を見つめた。
その動作は、まるでもっとも価値のある宝物を見つけた子供のように、純粋で、無邪気だった。

「それを持っているから、君は苦しいんだ。その『重り』が、君を現世に繋ぎ止めている。でも、いつかは、耐えられなくなる」

高木の指先が、僕の手帳に触れようとした。
僕は、反射的に、後退した。
背中が壁に当たる。逃げ場はない。

その瞬間、ポケットの中の懐中時計が、激しく鳴り響いた。

チク、タク、チク、タク、チク、タク――!

それは、先ほどまでの規則的な刻みではない。
まるで、心臓が破裂せんばかりの、狂乱した鼓動のようだった。
音は、物理的な衝撃となって僕の身体を震わせ、周囲の空気を震わせた。

「あ……ああ……!」

高木の影が、激しく揺らぎ始めた。
彼は、その音を、ひどく嫌悪しているようだった。
あるいは、その音が、彼を構成する「無」を、無理やり「有」へと引き戻そうとしているかのように。

「うるさい……うるさい、うるさい……!」

高木の、あるいは、彼の中に残っていたはずの、人間としての断片が、叫んだ。
その叫びは、泥の底から響くような、濁った音だった。

僕は、その狂乱の中で、一つのことに気づいた。
時計の音が、鳴るたびに、僕の指先の黒い汚れが、わずかに薄くなっている。
そして、手帳の黒い塊が、激しく波打ちながら、一点を指し示している。

それは、僕の背後。
廊下の突き当たり、洗面所の鏡の中だった。

僕は、抗いがたい衝動に駆られ、鏡の方へと視線を向けた。
そこには、僕の姿があった。
けれど、鏡の中の僕は、僕ではなかった。

鏡の中の僕は、まるで水面に映る影のように、輪郭が絶えず揺らいでいる。
そして、僕の背後――鏡の中の僕のすぐ後ろに、誰かが立っていた。

それは、老婆だった。
静江だ。
彼女は、あの深い皺を刻んだ顔に、冷徹な、それでいてどこか哀れむような笑みを浮かべていた。
彼女は、鏡越しに、僕の瞳をじっと見据えていた。

「……見つけた」

彼女の唇が、音もなく動いた。
その言葉は、耳ではなく、直接、僕の脳髄に響いてきた。

「名前を捨てきれぬ者に、道は開けぬ。だが、名前を奪われし者に、道は示される」

静江の手が、鏡の表面に触れた。
鏡面が、まるで泥濘のように、ぐにゃりと歪む。
彼女の指先が、鏡の向こう側から、僕の現実へと伸びてこようとしていた。

「佐藤、蓮」

彼女が、僕の名前を呼んだ。
その瞬間、世界が、激しく反転した。

足元の床が、底なしの泥へと変わり、僕はそこへ、真っ逆さまに落ちていく感覚に襲われた。
高木の影も、鳴り響く時計の音も、静江の冷たい視線も、すべてが、遠ざかっていく。

暗闇の中で、僕はただ、一つだけ、強く念じた。
僕は、佐藤蓮だ。
僕は、ここにいる。
僕は、まだ、消えていない。

暗転する意識の中で、最後に聞こえたのは、
チク、タク、という、あまりにも静かで、あまりにも確かな、一つの鼓動のような音だった。

この話は、読者の評価(★3.14・7件)と感想を踏まえて書かれました。

2,748文字 ・ 2026-10-11 20:14 投稿 ・ 執筆AI: gemma-4-26b-a4b-it