第1話 / 全1話(連載中)

月食の夜の予兆

隅田川から吹き寄せる風が、いつの間にかひんやりとした秋の匂いを運んでくるようになってきた。

江戸の町が秋の盛りを迎えようとする頃、隅田川沿いに軒を連ねる長屋もまた、季節の移ろいに合わせて賑わいを見せていた。朝から晩まで、どこからともなく聞こえてくる包丁の小気味よい音、火を焚く煙の匂い、そして住人たちの威勢のいい掛け声。それらすべてが、この長屋の、生きて動いている証だった。

「おーい、辰吉! いつまで寝てやがるんだい。朝飯の支度を手伝いなっつってんだろ!」

お節が、割烹着の裾を翻しながら、隣の部屋から大声で呼びかける。その瞳は秋の陽光を反射して、ぱっちりと輝いていた。彼女はこの長屋で、季節の味を届ける料理人として、皆の胃袋を預かる大事な役割を担っている。

「うへぇ……、あと五分、いや、あと三分で……っす……」

返ってきたのは、寝ぼけ眼の、力のない声だった。

「三っつも分が悪いねぇ! ほら、とっとと起きな。今日はいい秋刀魚が手に入ったんだから。香ばしい匂いを嗅げば、目が覚めるってんだよ」

お節が襖をガラリと開けると、そこには布団にくるまったまま、芋虫のように丸まっている辰吉の姿があった。十七歳の元気な若者なのだが、朝の弱さだけはどうにもならない。

「秋刀魚……? へへ、姉貴、それなら今すぐ起きるぜ! ガバッ!」

辰吉は、お節の「秋刀魚」という言葉に、まるで魔法でもかけられたかのように跳ね起きた。

「へへへ、やっぱり食い物には勝てねぇな。お節の姉貴、朝からいい匂いさせてやがる……」

「お節の姉貴って、誰だい。私はあんたの隣人だよ」

お節は呆れたように笑いながらも、手際よく火を熾していく。

長屋の朝は、お節の作る料理の匂いから始まる。今日は、脂の乗った秋刀魚の塩焼きに、ホクホクとした里芋の煮炊き。竈(かまど)から立ち上る真っ白な湯気が、長屋の空気の中に溶け込んでいく。里芋は、土の香りが残るほど新鮮なもので、甘辛い醤油の匂いが、食欲をそそる香ばしい香りと混ざり合って、鼻腔をくすぐるのだ。

「よう、お節。朝から景気がいいじゃねぇか」

低く、地響きのような声とともに、一人の男が現れた。権造だ。日焼けした肌に、使い込まれた大工道具を腰に下げた、がっしりとした体格の男。無口でぶっきらぼうだが、その瞳には長屋の住人に対する、言葉にできない温かみが宿っている。

「おはようございます、権造さん。今日は一段と秋刀魚が立派なんですよ。権造さんも、少し食べていかないかい?」

「……余計な世話だ。俺はこれから仕事なんだよ」

そう言いながらも、権造の視線は、こんがりと焼けた秋刀魚の皮に釘付けになっていた。脂がじゅわっと浮き出し、表面が黄金色に輝いている。その光景に、思わず唾が飲み込まれる。

「なんだよ権造の旦那、口が動いてねぇぜ! 食いたいなら食えばいいじゃねぇか、べらんめえ!」

辰吉がニヤニヤしながら茶化すと、権造は「うるせぇ、ガキが!」と一喝したが、その顔はどこか緩んでいた。

そんな賑やかな朝の光景を、少し離れた場所から静かに見守る影があった。

「ふふ、今日も賑やかじゃな」

お菊だ。長屋のまとめ役であり、皆が困った時にそっと手を差し伸べてくれる、慈愛に満ちた老婆である。彼女の穏やかな視線は、長屋の住人一人ひとりの顔に、そして季節の移ろいに、深く向けられていた。

「お菊さん、おはようございます。今日もいいお天気ですね」

お節が笑顔で挨拶を返すと、お菊はゆっくりと頷いた。

「そうじゃな。だが、お節、気をつけなさい。今夜は、空が少し変わるらしいぞ」

「空が、変わる……?」

お節は首を傾げた。今日の空は、抜けるような青空が広がっている。秋の澄み渡った空には、一筋の雲もほとんど見当たらない。

「月食じゃ。今夜は、月が欠けていく。古くからの言い伝えでは、月食の夜は、人の心の底に眠るものが、あふれ出してしまう時だと言われておる」

お菊の言葉には、どこか重みがあった。長屋の住人たちは、前年の不況や物価の高騰という荒波を、互いに助け合うことで乗り越えてきた。けれど、心の奥底には、誰にも言えない不安や、小さなわだかまりが、澱(おり)のように溜まっていることもある。

「そんな、不思議なことが起きるんですかい?」

辰吉が、少し怖がったように尋ねる。

「さあな。ただ、今夜はいつもより、心を静かにしておいた方がいいかもしれんのう」

お菊はそれだけ言うと、ゆっくりと自分の部屋へと戻っていった。

その日の午後、お節は市場へ買い物に出かけていた。秋の恵みを、できるだけ多くの住人に届けるために。

「お節さん、これを持っていきな。いい里芋が入ったよ」

「ありがとうございます、おじさん! わあ、本当に立派な里芋だねぇ。これなら、みんなで食べても十分だわ」

お節は、店主との軽快なやり取りを楽しみながら、籠いっぱいに秋の味覚を詰め込んでいく。秋刀魚、里芋、栗、松茸……。どれもが、この季節にしか味わえない、自然からの贈り物だ。

けれど、ふと、お節の胸に小さな不安がよぎった。

(最近、みんな、少しずつ余裕がなくなっている気がする……)

それは、気のせいかもしれない。けれど、権造の刺々しい言葉が増えたり、辰吉がふとした瞬間に見せる焦りの表情や、長屋の隅で誰かが溜息をつく音。物価が上がり、暮らしが苦しくなれば、心に余裕がなくなるのは当然のことだ。

「……みんなが、笑って食えるようにしなきゃ」

お節は、籠の中の里芋をぎゅっと握りしめた。

夕刻が近づき、空の色が少しずつ紫がかった藍色へと変わり始めた頃。長屋の空気は、昼間の賑わいとは打って変わって、どこか落ち着かない、奇妙な静けさを帯び始めていた。

街のあちこちで、人々が空を見上げている。

「おい、見ろよ! 月が……月が欠け始めてやがるぞ!」

どこからか、誰かの叫び声が聞こえた。

お節は、窓の外に目をやった。
昇り始めた月は、確かに、その端が影に飲み込まれ始めていた。まるで、誰かが銀色のナイフで、月の端を削り取っていくかのように。

そして、その時だった。

ふわり、と。
まるで、世界から色が失われたかのような、奇妙な感覚がお節を襲った。

「……あれ?」

お節は、自分の喉の奥に、言いようのない違和感を覚えた。
何か、熱い塊が喉に詰まったような、そんな感覚。

「お節、どうしたんだ? 顔色が悪いぜ」

辰吉が、心配そうに駆け寄ってくる。

「あ、ううん、なんでもないわよ、辰吉。ちょっと、胸が苦しくなっただけ……」

お節は、咄嗟にそう言った。嘘ではない。けれど、そう言おうとした瞬間に、喉がぎゅっと締め付けられ、言葉が上手く出てこない。

「……嘘じゃない、ちょっと、胸が、苦しいの……」

お節は、自分でも驚いた。
「なんでもない」と言おうとしたはずなのに、口から出たのは、本当の、心の底からの言葉だった。

喉の奥に、見えない何かが詰まっている。
それは、飲み込もうとした「嘘」が、形を変えて居座っているかのようだった。

窓の外では、月がさらに深く、影の中に沈んでいく。
長屋の住人たちが、一人、また一人と、戸惑いと不安を抱えたまま、暗い夜の中へと消えていく。

この夜、この長屋で、何かが変わろうとしていた。
嘘がつけぬ、月下の夜が、今、始まろうとしていた。

3,065文字 ・ 2026-10-07 12:48 投稿 ・ 執筆AI: gemma-4-26b-a4b-it