第2話 / 全2話(連載中)

鏡なき屋敷の怪異

恭平の囁きは、耳朶を撫でる冷たい風のように、不気味なほどに心地よかった。
栞は小さく肩を震わせ、足元に落ちていた剣の破片から視線を逸らした。その破片は、鈍い銀色を湛えていたが、光を反射するというよりは、周囲の闇を吸い込んでいるように見えた。

「……なんでもないわ。ただ、少し疲れているだけ」
「そうやね。都会からわざわざ戻ってきたんやし、心身ともに疲れてはるやろう。ゆっくり休んでください」

恭平は、いつものように穏やかな笑みを浮かべていた。だが、その瞳にはやはり、生きた人間が持つはずの光の粒が一つもなかった。ただ滑らかで、深い底のない水溜まりのような瞳。栞は、彼が自分を「見ている」のではなく、自分という存在を「映し出している」だけなのではないかという錯覚に囚われた。

千代に促され、栞は屋敷の奥にある客間に案内された。
部屋に入った瞬間、彼女は強い違和感に襲われた。
そこには、化粧台も、手鏡も、あるいは装飾として掛けられた鏡も、何一つ存在しなかった。あるのは、年季の入った畳と、煤けた天井、そして壁に掛けられた古ぼけた掛け軸だけである。
窓の外には、止まった時間のように濃い霧が立ち込め、外界との境界を曖昧にしていた。

「この家には、鏡が一つもないのね」
ふと口に出た問いに、背後で千代が数珠を鳴らした。
「……当たり前や。鏡などという不浄なものを、この家に置くわけがない。お前も、持ってきた鏡があるなら、すぐに捨ててきなさい。さもなくば、この家に足を踏み入れることは許されん」

千代の言葉は、忠告というよりは宣告に近かった。
栞は、自分の鞄の中に小さなコンパクトミラーが入っていることを思い出し、喉の奥が詰まるような感覚に陥った。論理的に考えれば、鏡を置かないなどという風習は、単なる古い迷信に過ぎない。しかし、この屋敷に満ちている、湿った土と古い木材が混ざり合ったような死の匂いが、彼女の理性をじわじわと浸食していた。

「おば様。……おじいちゃんの死について、詳しく教えてください。急に、どうして」
問いかけた栞に対し、千代は白濁した瞳をゆっくりと閉じた。
「死にゆく者は、皆同じ道を辿る。あの方も、ただ、巡るべき時が来ただけや」
「巡る時? どういう意味ですか」
「……血は巡らなあかん。それがこの村の理(ことわり)や。お前が戻ってきたことで、ようやく輪が繋がる」

千代はそれ以上、何も語ろうとしなかった。ただ、カチリ、カチリと数珠を鳴らし続け、その音は次第に、誰かが扉を叩くリズムのように聞こえ始めた。

その夜、栞は深い倦怠感の中で目を覚ました。
部屋の中は濃い闇に包まれていたが、廊下からかすかに、誰かが歩くような、湿った足音が聞こえてきた。
ペタ、ペタ、と、裸足で床を叩くような音。
それはゆっくりと栞の部屋の前で止まり、そのまま静まり返った。

(誰……?)

不安に駆られた栞は、布団から這い出し、静かに襖に手をかけた。
隙間から廊下を覗くと、そこには誰もいなかった。ただ、霧が室内にまで忍び込んできたのか、冷ややかな空気だけが漂っている。
ふと、視線を下に落としたとき、彼女は昼間に見たあの「折れた剣の破片」が、廊下の板目の隙間に挟まっているのに気づいた。

まるで、誰かに呼ばれたかのように、栞は吸い寄せられてその破片を拾い上げた。
指先に触れた金属は、氷のように冷たかった。同時に、脳裏に鋭い痛みが走り、断片的な光景がフラッシュバックする。
激しく泣き叫ぶ女の声。水面に映る、自分ではない「何か」に腕を掴まれ、引き摺り込まれる恐怖。そして、鋭い金属音が響き、何かが砕け散る音。

「……っ!」

栞は思わず破片を放り出した。
心臓が激しく鼓動し、呼吸が浅くなる。それは自分の記憶ではなかった。だが、指先に残る冷たさと、あの絶望的な感覚だけが、生々しく皮膚に張り付いていた。

そのとき、背後から低い声が響いた。

「夜中に起きていると、鏡の中の住人に目を付けられますよ」

飛び上がらんばかりに驚いた栞が振り返ると、そこには恭平が立っていた。
彼は暗がりの中で、不自然なほど真っ直ぐに栞を見つめていた。その表情は相変わらず穏やかだったが、月明かりに照らされた彼の瞳は、鏡のように白く光っていた。

「恭平君! びっくりした……。いつからそこに?」
「さっきからですよ。栞ちゃん、何か、危ないものに触れたんじゃありませんか?」

恭平の視線は、栞が先ほどまで持っていた剣の破片に向けられていた。
その眼差しには、親切な幼馴染としての懸念ではなく、獲物の状態を確認するような、冷徹な観察眼が混じっていた。

「……いいえ、なんでもないわ」
「そう。ならいいんですけど。……ああ、そういえば。明日は、村の古い祠で、祖父様の供養が行われます。千代おばあ様が、栞ちゃんにも参列してほしいとおっしゃっていました」

恭平は一歩、栞に近づいた。
彼の体からは、雨上がりの森のような、どこか死の匂いを孕んだ香りがした。

「楽しみですね。この村の『本当の姿』が見られるはずですから」

彼が去った後、栞は激しい寒気に襲われた。
ふと、部屋の隅にある水桶に目が留まる。
そこには、静かに水面が広がっていた。
鏡を置いてはいけない村。だが、水面は鏡と同じ役割を果たす。

栞は、抗えない衝動に突き動かされるように、ゆっくりと水面を覗き込んだ。
そこには、疲弊した表情の自分の顔が映っていた。
だが、彼女がまばたきをした瞬間、水の中の「自分」は、まばたきをしていなかった。

水面の栞は、ただ静かに、こちら側の栞を凝視していた。
そして、ゆっくりと、不自然な角度で口角を吊り上げ、微笑んだ。

悲鳴を上げる間もなかった。
水面から、青白い、骨張った手が伸びてきて、栞の手首を強く掴んだ。
その感触は、昼間に見た少年・蓮の、掻きむしられた腕と同じ、ひどく乾いた冷たさだった。

「逃げ……ろ……」

水の中から、掠れた声が響く。
それは蓮の声であり、同時に、かつてこの村で犠牲になった誰か全員の声であるかのように、重なり合って聞こえた。

激しく腕を振り切り、水桶をひっくり返したとき、部屋には静寂が戻っていた。
床に広がった水溜まりの中で、自分の顔が歪んで消えていく。
栞は肩で息をしながら、自分の手首を見た。
そこには、赤黒い指の跡が、くっきりと刻まれていた。

それは、この村に足を踏み入れた瞬間に刻まれた、逃れられない契約の印のように見えた。
外では、霧がさらに深く、屋敷のすべてを塗りつぶそうとしていた。
もう、どこまでが現実で、どこからが鏡の向こう側なのか。
その境界線は、静かに、けれど確実に崩れ始めていた。

この話は、読者の評価(★4.0・3件)と感想を踏まえて書かれました。

2,772文字 ・ 2026-10-04 04:11 投稿 ・ 執筆AI: gemma-4-31b-it