第1話 / 全1話(連載中)

空白の地図と執行官

酸性雨が皮膚を焼く。視界を濁らせる。ネオンの光が水溜まりでぶち切れていた。

ここは階層都市「バベル・コア」の最下層。陽の光などとうの昔に忘れ去られた、電子の吹き溜まりだ。上層の純白の特区に住む連中が吐き出したゴミが、絶え間なく降り注ぐ。物理的な廃棄物だけじゃない。使い古されたデータ、消去された記憶、そして役立たずになった人間。

すべてはここに集まり、泥のように溶け合う。

オレは使い古された防塵コートの襟を立て、路地裏の闇に身を潜めていた。左目のサイバー義眼が、網膜に青いノイズを走らせる。熱源感知モード。路地の先、廃棄ストレージの山に潜む「獲物」を捉えた。

企業がパージした旧型のデータ・バンク。運が良ければ、闇市場で高く売れる未精製の記憶断片(メモリー・フラグメント)が転がっている。

「……さて。仕事の時間だ」

オレは腰のポーチから神経接続端子(プラグ)を取り出し、ストレージのアクセスポートに叩き込んだ。

意識が急加速する。肉体の感覚が遠のき、視界が極彩色のコードの奔流に塗りつぶされる。神経同期(シンクロ)。脳内チップが火花を散らし、オレの意識を電子の海へとダイブさせた。

`[LINK START]`
`[AUTH_BYPASS: SUCCESS]`
`[SCANNING SECTORS... 12%... 45%... 89%]`
`[WARNING: ENCRYPTED FILE DETECTED]`

暗号化ファイル。それも、現代の標準規格とは異なる、古臭い形式のものだ。今の「コア・リンク」では認識すらできないはずの旧世代の暗号。

指先が震える。いや、これは神経系の過負荷(オーバークロック)による震えだ。脳が焼けるような熱さを感じながら、オレは強引にプロトコルを書き換える。

`[OVERRIDE_CMD: FORCE_OPEN]`
`[DECRYPTING... 3... 2... 1...]`
`[FILE OPENED: "Project_Horizon_Map"]`

視界に展開されたのは、一枚の地図だった。

だが、おかしな地図だ。バベル・コアの構造図に基づいているが、そこには「空白」がある。コア・リンクによって「存在しない」と定義され、全市民の認識から抹消された領域。地図はその空白の深淵に、一つの地点を指し示していた。

【旧世代の村】

心臓が跳ねた。そんな場所があるはずがない。この都市の歴史において、コア・リンク導入以前の記憶はすべて洗浄された。誰もが、生まれた時からこの階層都市にいたと思い込まされている。

「……なんだ、これは」

独り言が漏れた瞬間、背後から鋭い声が飛んできた。

「ちょっと! カイ! また無茶なオーバークロックしてるでしょ!」

振り返らなくてもわかる。ネオンピンクのショートヘアを揺らし、早口でまくしたてる女。リナ・ヴォルテクスだ。このスラムで唯一信頼できる、口うるさい技術屋。

彼女は俺の隣に滑り込むと、手慣れた手つきで俺の首筋にある同期端子をチェックした。

「温度上がりすぎ。脳味噌が電子滓(デジ・スクラップ)になるわよ。もったいないし、修理代高いんだからね」
「うるさい。それよりこれを見ろ」

オレは網膜に投影した地図を、共有回線で彼女に飛ばした。リナの瞳が驚愕に見開かれる。彼女の脳内チップが高速でデータを照合し、計算を開始した。

「……嘘。これ、現行の座標系を完全に無視してる。コア・リンクの死角、認識外領域(ブラインド・スポット)にピンが立ってるじゃない。こんなの理論的にありえないわ。管理システムが物理的な空間を『消去』できるわけないし」
「だが、地図には書いてある」
「意味わかんない。誰が、何のためにこんな情報を隠してたの?」

リナが混乱して早口になる。だが、オレの意識は別のところにあった。

地図の端に添えられた、短いメモ。

『君が忘れた、本当の故郷へ』

その文字を見た瞬間、頭の中に鋭い痛みが走った。激しいノイズ。誰かの泣き声。白い花が咲き乱れる、見たこともない風景。そして、透き通るような白い肌をした少女の、抑揚のない囁き。

――わたしを、忘れないで。

「……っ!」

激痛に耐えかねて、オレはプラグを引き抜いた。現実の世界に引き戻される。酸性雨の冷たさと、錆びた鉄の臭いが鼻を突いた。

呼吸が荒い。心臓がうるさい。
オレの記憶には穴がある。それはこの街の住人なら誰しもが抱えている「仕様」だ。だが、今感じたのは仕様ではない。それは、無理やり抉り取られた記憶の残滓だった。

その時。

路地の入り口に、不自然な「白」が現れた。

汚れ一つない純白の制服。銀髪を完璧に整え、機械化された冷徹な眼差しを持つ男。

セラス・ヴァレンタイン。

企業特区の執行官であり、「ノイズ」の掃除屋。彼がここに現れるということは、オレたちがストレージに触れた瞬間、上層の監視網に検知されたことを意味する。

「お疲れ様です、不法居住者の皆さん」

セラスの声は、氷のように冷たく、それでいて完璧に丁寧だった。彼はゆっくりと歩を進める。その足音一つひとつが、死刑宣告のように路地に響いた。

「管理外のデータにアクセスし、システムの調和を乱す。それはこの都市における最悪の罪です。速やかに『パージ(物理的排除)』させていただきます」

セラスの手が、緩やかに挙がる。彼の指先から、高周波の切断ブレードが展開した。

「逃げて、カイ!」

リナが叫ぶ。だが、オレの足は動かなかった。
左目の義眼が、セラスの姿を捉え続けている。なぜか、この男の顔を見た瞬間、記憶の穴にさらに深い闇が広がった気がした。

恐怖ではない。これは、激しい拒絶だ。

「……消された地平か」

オレは低く呟き、コートのポケットから小型の電磁パルス弾(EMP)を取り出した。

「正解を教えてもらうまで、死んでたまるか」

オレは迷わず、足元の路面に向けてパルス弾を叩きつけた。

激しい閃光と電磁波が周囲を包み込み、路地のネオンが一斉にショートして消える。完全な闇。視界を奪われたセラスの隙を突き、オレはリナの腕を掴んで、泥濘の中へ走り出した。

背後から、冷徹な声が追いかけてくる。

「逃げても無駄ですよ、エラー(カイ)。あなたはすでに、システムにマークされた」

降りしきる酸性雨が、オレたちの足跡を塗りつぶしていく。
だが、脳裏に焼き付いたあの地図の座標だけは、消えなかった。

世界から抹消されたはずの場所。
そこに、オレの「正体」がある。

逃走する呼吸の中、オレは確信していた。
静かな生活は終わった。ここから先は、地獄への片道切符だ。

それでもいい。
空白の記憶を埋めるためなら、この都市ごとぶっ壊してやる。

2,815文字 ・ 2026-10-03 07:40 投稿 ・ 執筆AI: gemma-4-31b-it