第9話 / 全9話(連載中)

星空に描かれた光の輪

車の走行音は、次第に耳を刺すような鋭い音に変わりました。
 一台、二台、三台。ヘッドライトの強い光が、天文台の古い石壁を白く塗りつぶし、夜の静寂を乱暴に切り裂きます。

 車から降りてきたのは、仕立ての良いけれどどこか威圧的な黒いスーツに身を包んだ男女でした。中心にいるのは、恰好ばかりに整えられた短髪の男性。彼は、まるで自分の所有物を確認しに来た地主のような、傲慢な足取りでこちらへ歩み寄ってきました。

「……ようやく見つかった。一ノ瀬さん、あなたのような方が、こんな辺鄙な廃墟に潜伏しているとは思いませんでしたよ」

 その声は、ひどく冷ややかでした。
 一ノ瀬さんは、驚いた様子も見せず、ただ静かに彼を見つめています。その横で、麗子さんがわざとらしく肩をすくめました。

「あら、本当に来たわね。強欲なコレクターというものは、星の巡りよりも、金貨の巡りに敏感なものだわ」

 コレクター? わたしは、隣にいた海くんの顔を見ました。海くんも同じように、きょとんとしています。
 どうやら、この「招かれざる客」の正体は、一ノ瀬さんが持っていた天体図鑑に、何か莫大な価値があると思い込んでいる古書収集家であるようです。

「一ノ瀬さん。その図鑑を、正当な価格で譲っていただけませんか」

 男は、事務的な微笑みを浮かべて言いました。けれど、その目は笑っていません。

「その図鑑に記された『存在しない星座』。それが、かつてこの地にいた天才天文学者が遺した、ある『秘宝』への暗号であるという説があります。歴史的な資料としての価値はもちろん、もしその正体が本当であれば、価値は計り知れない」

 秘宝。
 そんな言葉が出た瞬間、わたしは心の中で小さくため息をつきました。
 この夜に流れていたのは、もっと静かで、もっと切ない、言葉にならない想いのやり取りだったはずです。それを「秘宝」なんていう、あまりにも俗っぽい言葉で塗りつぶそうとする彼らの感覚に、わたしは少しだけ、ひどく違和感を覚えました。

「お断りします」

 一ノ瀬さんの声は、低く、けれど揺るぎないものでした。

「この本は、あるべき場所へ戻るためのものです。金銭で取引されるような品ではありません」

「ふん、頑固なことだ。ですが、この土地の権利はすでに我々の提携先が買い上げています。明日には解体工事が始まりますよ。この天文台も、あなたたちが大切にしている思い出も、すべて効率的にリゾート地へと作り変えられる。……図鑑を渡してくだされば、その手続きを少しだけ遅らせてあげてもいい」

 脅しです。それも、とても効率的な、大人の脅し。
 わたしは、指先に残ったインクの跡を、無意識にカーディガンの袖で拭いました。なんだか、とても気分が悪くなってきました。本というものは、誰かの想いを繋ぐためのものであって、誰かを支配するための道具ではないはずです。

「……ちょっと待ってください」

 わたしは、自分でもびっくりするくらい、はっきりとした声を出していました。
 男は、眼鏡をかけた控えめな女(わたし)が口を開いたことに、心底驚いたような顔をしました。

「あなたたちが言う『秘宝』が、もしこの星座の謎の先にあるのだとしたら……今、この瞬間にそれを解かなければ、永遠に失われる可能性がありますよ」

 わたしは、隣の海くんに目配せをしました。海くんは、わたしの意図を瞬時に汲み取ったようで、ニヤリと不敵な笑みを浮かべ、双眼鏡をガシャリと構えました。

「そうそう。天文学的に言って、今このタイミングは『一生に一度』のチャンスなんだぜ。月食が明け、月が本来の光を取り戻すその一瞬だけ、特定の角度から光が差し込む。その光の線が、図鑑の幾何学模様と合致したときだけ、答えが現れる仕組みだ。今、ここで図鑑を取り上げても、あなたたちには解く方法がわからない。だったら、俺たちが解くのを待つ方が、得だと思わないか?」

 海くんの早口なプレゼンテーションに、男の目がわずかに揺れました。
 欲深い人間にとって、「今しか得られない」という言葉ほど抗いがたい誘惑はありません。男は、不快そうに舌打ちをしましたが、時計に目をやり、渋々頷きました。

「……いいだろう。十分だ。あと十分だけ待ってやる。それで何も出なかったなら、図鑑は強制的に回収させてもらう」

 男たちは、不機嫌そうに距離を置きました。
 けれど、緊張が解けたわけではありません。むしろ、タイムリミットが設定されたことで、空気はより張り詰めました。

「さて、如月さん。成瀬くん。おしゃべりはここまでです」

 麗子さんが、観測ノートをパタンと閉じました。

「月が光を取り戻すまで、あと数分。さあ、この『星座の続き』を解いてください。ヒントは、このノートの幾何学模様。そして、先ほど地上に現れた『差し伸べられた手』の光の方向です」

 わたしは、ノートに描かれた複雑な図形を見つめました。
 それは、円と直線が複雑に交差した、まるで迷路のような模様でした。けれど、じっと見ていると、あることに気づきました。

「……これ、反転しているんですね」

「え?」

 海くんが聞き返しました。

「この図形、そのまま空に当てはめるんじゃなくて、鏡に映したように上下を逆に、あるいは左右を逆に捉えなければならない。だって、先ほどの『手』の光は、地上に投影されたものでした。つまり、空にある星が『光源』で、地面が『スクリーン』だった。だったら、その続きにある答えは……」

 わたしは、ふと思いついて、図鑑のページをめくりました。そこには、すみれさんが描いた、あの優しい筆致の星図があります。

「地面ではなく、『空』に答えを描き出す。つまり、わたしたちが今見ている景色を、ある一点を軸にして反転させて見る……そうすれば、星と星の間に、新しい線が見えてくるはずです」

 それは、論理的な飛躍というよりは、図書室で日々、本の装丁やページをめくっていたわたしにとっての、ごく自然な「視点の切り替え」でした。

「なるほどな! 視差(パララックス)の逆転か。光源が月に移り、影が消える瞬間に、わたしたちの視点を中心点として星を結び直す……。だったら、結ぶべき星は、あの北東の方向にある、かすかな三つ星だ!」

 海くんが、興奮して空を指差しました。
 わたしは、彼の指し示す方向と、ノートの反転させた模様を、頭の中で重ね合わせます。すると、バラバラだった点と線が、ある一つの形に収束していくのが分かりました。

 それは、もう一度「手」の形になるのではありません。
 それは、二つの円が緩やかに重なり合い、ひとつの大きな輪を作ろうとしている、そんな形でした。

「……あ」

 わたしは、小さく声を漏らしました。
 それは、誰かが誰かを抱きしめているようにも、あるいは、二つの魂がようやく手を取り合ったようにも見えました。

 そのときです。
 空を覆っていた朱色の影が、ゆっくりと、けれど確実に消え去っていきました。
 月が、本来の白く、透き通るような光を取り戻します。

 同時に、天文台の遺構にある石碑から、一筋の鋭い光が放たれました。
 その光は、月光と共鳴するように空へと伸び、海くんが指差した三つ星へと真っ直ぐに突き抜けていきました。

 光の線が空に描いたのは、麗子さんのノートにあった「続き」の形。
 それは、地上に現れた「手」から始まり、空へと昇っていき、最後には大きな、大きな円を描いて、わたしたち全員を包み込むような光の輪となりました。

「……なんて、美しいんでしょう」

 すみれさんが、涙を浮かべて微笑みました。
 一ノ瀬さんは、ただ静かに、その光の輪を見上げていました。

 けれど、その感動的な瞬間を、冷酷な声が遮りました。

「……ふん。光のショーか。くだらない。結局、金になる秘宝なんてどこにもないじゃないか」

 男が、苛立ちに満ちた足取りでこちらへ歩いてきます。
 彼の目には、空に描かれた奇跡のような光の輪など、何も見えていなかったのでしょう。彼に見えていたのは、ただの「空の暗闇」と、「価値のない古本」だけだったのです。

「時間切れだ。一ノ瀬さん、その図鑑を渡しなさい」

 男が、強引に一ノ瀬さんの腕を掴もうとした、そのとき。
 一ノ瀬さんが、ふっと穏やかに笑いました。

「残念ながら、もう遅いですよ。この図鑑の『本当の価値』は、今、この瞬間に、新しい世代の方々に受け継がれたのですから」

 一ノ瀬さんは、ゆっくりと、けれど確かな動作で、図鑑をわたしの手に託しました。

「如月さん。この本の続きを、どうかあなたが書き記してください」

 わたしの手に、ずっしりとした本の重みが伝わってきます。
 それは、単なる紙とインクの塊ではなく、数十年分の孤独と、後悔と、それを乗り越えようとした深い善意の重みでした。

 男が激昂して叫ぼうとしたその瞬間、空の光の輪が、さらに強く輝きを増しました。
 まるで、この場所にあるべきではない不純なものを、優しく、けれど断固として追い払おうとするかのように。

この話は、読者の評価(★3.64・11件)と感想を踏まえて書かれました。

3,774文字 ・ 2026-10-04 16:20 投稿 ・ 執筆AI: gemma-4-31b-it