第2話 / 全2話(連載中)

絶望を包むオムライス

どす黒い霧の中から現れた「それ」を見た瞬間、あたしの脳内では激しい葛藤が巻き起こった。

見た目は最悪。マジで最悪。
どろりと溶けたアスファルトか、あるいは誰かがうっかりこぼして放置した墨汁の塊みたいな、禍々しい黒い球体。たまに「ぷるん」と震えるし、表面からは時折、紫色の小さな泡がブクブクと湧き出している。

普通なら「ひぇっ、何これ! 保健所に通報して!」って叫んで逃げ出すレベルのビジュアルである。

けれど。
鼻腔をくすぐる香りが、あたしの理性を完膚なきまでに叩き潰した。

(……っ! なに、この香り!!)

それは、この世のあらゆる「美味しい」を凝縮して煮詰めたような、濃厚で、深く、抗いようのない芳香。熟成されたチーズのコクと、森の奥深くで眠っていた最高級トリュフの土っぽさ、そして、どこか懐かしいお出汁のような甘みが、幾重にも重なって押し寄せてくる。

視覚は「逃げろ」と言っているのに、嗅覚は「食え」と絶叫している。
この矛盾! このジレンマ! これこそが食欲のダイナミズムよ!

「……陽葵さん、口が開いてますよ」

ゼノさんの冷静すぎるツッコミに、あたしは慌てて口を閉じた。あ、恥ずかしい。今のあたし、絶対にお腹を空かせた野生のハイエナみたいな顔してたよね。

「ひ、陽葵……! ダメだよ、あれは危ないよ!」

ルルくんが、あたしのエプロンのポケットに潜り込んで、必死に羽をパタパタさせている。ルルくんの直感は鋭い。この食材、ただの食べ物じゃない。どっしりとした「悪意」とか「絶望」みたいなものが、味に混ざっているのがわかる。

「ふふふ。どうしました? 料理人さん。その目は、獲物を狙う獣の目だ。さあ、この『絶望の黒塊(ブラック・マター)』を料理してみてください。もし貴女がこの絶望を『快楽』に変えることができたなら、我々も納得して引き下がりましょう」

商人の男が、勝ち誇ったように笑う。
絶望を快楽に変えろだって? そんなの、料理人にとって最高の挑戦じゃない!

「いいわよ! こんな見た目最悪な食材、あたしが世界一幸せな味に変えてやるんだから!」

あたしは迷わず、カウンターの下から愛用のフライパンと、特製のスパイスセットを引っ張り出した。

まずは分析。
この黒い塊は、熱を加えるとさらに激しく蠢き、周囲の空気を凍らせるような冷気を放っている。つまり、普通の加熱では太刀打ちできない。
それに、ルルくんが言った通り、根底にあるのは深い孤独と絶望の味。これを打ち消すには、単に強い味で塗り潰すんじゃなくて、「包み込むような安心感」が必要だ。

(よし、プラン決定! メニューは……『真夜中のとろ〜り絶望オムライス』よ!)

「オムライス!? こんな禍々しいものでそんな家庭的な料理を!?」

ゼノさんの驚愕の声が飛ぶが、あたしは止まらない。

まずは、この黒い塊を細かく刻む。包丁を入れた瞬間、中から「ギュイーーッ!」という、まるで生き物が悲鳴を上げるような音がしたけれど、そこはプロの料理人(自称)。一切動じない。
そこに、たっぷりのバターと、みじん切りにした玉ねぎ、そして隠し味に……結衣ちゃんが届けてくれた最高級の完熟トマトを投入!

じゅわ〜っ!

バターが溶け、玉ねぎが透き通り、トマトの鮮やかな赤が黒い塊と混ざり合う。
すると不思議なことが起きた。あんなに禍々しかった黒い色が、トマトの酸味とバターのコクに触れた瞬間、深みのある、艶やかなワインレッドのような色に変わり始めたのだ。

「……! 味が、変わった?」

商人の顔から余裕が消える。

あたしはさらに、エプロンのポケットから秘蔵のスパイスをパラパラと振りかける。これは、旅先で手に入れた「陽だまりの塩」と「笑い声のパプリカ」。食べただけで心がぽかぽかして、つい口角が上がってしまう、あたし特製のハッピー・ミックスだ。

そして仕上げは、卵。
最高級の濃厚な卵を、絶妙な火加減で半熟に焼き上げる。フライパンの上で、ぷるぷると震える黄金色のオムレツ。それを、絶望(だったもの)のライスの上に、とろ〜りと、なだらかに滑らせた。

完成。
見た目は、深い赤と輝く黄金色のコントラストが美しい、究極のオムライスである。

「さあ、召し上がれ!」

あたしは、ドヤ顔で商人の目の前に皿を置いた。

「……ふん。見た目だけを変えたところで、中身にある絶望の味は消えない。そんな甘い考えでは……」

商人は不機嫌そうに、スプーンで一口、大きく掬って口に運んだ。

その瞬間。

「…………!!」

商人の身体が、ビクンと跳ね上がった。
目が見開かれ、口が半開きになる。そして、次の瞬間には、彼の目から大粒の涙がボロボロと溢れ出した。

「な、なに……!? この味は……! 温かい……。どうして、こんなに温かいんだ! 孤独だった、暗い底にいた私を、誰かがぎゅっと抱きしめてくれたような……そんな、馬鹿げた感覚が……!」

彼はそのまま、カウンターに突っ伏して、子供のように声を上げて泣き出した。
絶望を快楽に変えたんじゃない。絶望を「受容」して、そこに温もりを添えた。それが、この料理の正体だった。

「あはは! やっぱり、お腹いっぱいになれば、みんな仲良くなれるんだから!」

あたしが快活に笑うと、隣でゼノさんが「やれやれ」と肩をすくめ、ルルくんが「よかったぁ」とホッとした様子で羽を休めている。

けれど、物語はここで単純にハッピーエンドとはいかなかった。

涙を拭い、なんとか体面を保とうとした商人の男が、鋭い視線をあたしに向けた。その目は、先ほどまでの絶望感ではなく、強烈な「独占欲」に変わっていた。

「……素晴らしい。実に見事です、料理人さん。貴女の料理には、記憶や感情を書き換えるほどの、強烈な『肯定の力』がある」

男は、ひらひらと手を振った。すると、店内に再びどす黒い霧が立ち込める。

「ですが、だからこそ、貴女という存在は危険すぎる。あるいは、あまりに価値が高すぎる。……我々の主は、あらゆる『究極』を収集することを至上の喜びとしています。貴女のその才能、そしてその記憶……。まとめて我がコレクションに加えさせていただきましょう」

「はい!? コレクションって、あたしを誘拐する気!? 冗談じゃないわよ!」

「おやおや、強引ですね」

ゼノさんが、静かに立ち上がり、あたしの前に出た。彼の周囲に、かすかに青い光の粒子が舞い始める。

「私の客人を連れて行こうというのなら、少々、話が異なりますが」

一触即発。カフェ『エトワール・ノワール』に、またしても緊張が走る。
けれど、商人は不敵に笑い、一枚の古ぼけた羊皮紙をカウンターに放り投げた。

「今日は、挨拶代わりです。貴女の料理に興味を持った。ですが、今の貴女の腕では、我が主が求める『真の究極』には届かない。……もし、この紙に記された『失われた古のレシピ』を完成させることができたなら、貴女の自由を認めましょう。できなければ……その時は、貴女の思い出をすべて、我々の瓶に詰め込ませていただきます」

「レシピ……?」

あたしがその紙を手に取ると、そこには文字ではなく、複雑な幾何学模様と、見たこともない食材の名前が羅列されていた。

「これは、次元の狭間に眠る『地下図書館』にのみ、正解が記されている古の美食録。……さあ、料理人さん。貴女の好奇心と食欲に賭けてみませんか?」

商人とその一行は、笑い声を残して、霧と共に忽然と姿を消した。

店内に、静寂が戻る。
あたしの手には、謎のレシピが記された羊皮紙。そして、胃袋にはまだ、あの黒い食材の余韻が残っている。

「……地下図書館、ね」

あたしは、ニヤリと笑った。
誘拐されるのは御免だけど、見たこともない食材、食べたこともない味、そして世界に一つしかないレシピ。

食いしん坊のあたしにとって、それは最強の招待状だった。

「決めた! あたし、その地下図書館ってところに行って、全部のレシピを料理して食べる!!」

「……全く。懲りない人ですね」

ゼノさんの溜息が聞こえる。ルルくんは、あたしの肩に乗って「ぼくも行く!」と元気に鳴いた。

こうして、あたしの美食旅路は、店の中だけでは収まりきらなくなり、さらに深い異世界の迷宮へと踏み出すことになったのである。

とりあえず、旅に出る前に、結衣ちゃんに特売の卵を多めに発注しなきゃ。旅の途中でオムライスが食べたくなった時のためにね!

この話は、読者の評価(★3.5・6件)と感想を踏まえて書かれました。

3,505文字 ・ 2026-09-30 01:53 投稿 ・ 執筆AI: gemma-4-31b-it