第2話 / 全2話(連載中)

嘘の夢と真実の呪い

季節は、すっかりと秋から冬へとその端境期を迎えていた。

深川の空は高く、透き通るような寒さを孕んでいる。長屋の軒先では、誰かが干した大根が、朝露に濡れて白く輝いていた。その白さが、どこか冬の訪れを急かすようで、清次は背負い袋の紐を締め直し、少しだけ身を縮めた。

「おーい、清次! またそんなところでぼーっとして! 薬売りなら、さっさと商売に出なきゃ、今日の飯は抜きだぞ!」

威勢のいい声が飛んできた。お凛だ。彼女は手際よく長屋の共有スペースを掃き清めながら、腰に手を当てて清次を睨みつけている。その頬は、寒さのせいか、あるいは活発に動いているせいか、ほんのりと赤らんでいた。

「へっ、分かってるよ。誰がぼーっとしてるってんだ。俺は、この街の空気がどうなってやがるか、ちょっと考えてただけだ」

「考えたって、お腹は膨らまないわよ。ほら、これでも食ってシャキッとしなさい!」

お凛が差し出してきたのは、小皿に乗った焼き茄子だった。秋の味覚、香ばしい煙の香りが鼻腔をくすぐる。皮を剥いたふっくらとした身に、少し多めの生姜醤油が垂らされている。

「……ありがてぇ。いただきます」

清次は、ぶっきらぼうに受け取ると、口に放り込んだ。じゅわりと広がる茄子の甘みと、生姜のピリッとした刺激。それが胃の腑に落ちると、不思議と昨夜の源蔵という男への不快感が、少しだけ和らいだ気がした。

「……なあ、お凛。お前、昨日の夜、怖くなかったか」

「え? ああ、あの黒い着物の男の人? ……正直、ちょっとだけ。でも、清次さんが『ぶっ飛ばしてやる』なんて言ってたから、なんだか安心しちゃったわ」

お凛は屈託なく笑うが、その瞳の奥には、隠しきれない不安の影が揺れている。清次は、自分の「呪い」が、彼女の不安を拭い去るどころか、かえって際立たせてしまっているのではないか、と自嘲気味に思った。

「……あんた、本当は怖かったんでしょ」

清次の口から、意識せずとも言葉が漏れた。嘘をつけない呪い。お凛が無理に作った笑顔の裏にある、震える心を見透かしてしまう。

「……っ! もう、清次さんはいつもそうなんだから! 意地悪なんだから!」

お凛は顔を真っ赤にして、掃き掃除の箒を乱暴に振り回した。

「意地悪じゃねぇよ、本当のことを言っただけだ。……すまねぇ」

清次は、申し訳なさに視線を落とした。この呪いのせいで、人を傷つけてしまう。それが時として、救いになることもあれば、刃になることもある。

そんな二人のやり取りを、長屋の入り口から眺めていた大家の善兵衛が、温かい笑みを浮かべて声をかけた。

「はっはっは。清次、あまりお凛を困らせるな。お凛も、こいつの言葉は半分、半分、真実と不器用さが混ざっとるからな」

「善兵衛さん」

「ああ、清次。昨夜の件だが……。少しばかり、街の様子がおかしいのは事実じゃ。北の『眠らない街』のあたりから、妙な熱気が流れてきおる」

善兵衛の言葉に、長屋の空気が一瞬、静まり返った。

「熱気、ですか」

「そうじゃ。ただの騒ぎじゃねぇ。まるで、街全体が、何かに浮かされているような……そんな、おかしな高揚感じゃ。最近じゃ、夜中に明かりが消えん家が増えとるし、おまけに、道端でうわ言を呟きながら歩いとる者もおる」

善兵衛の顔は、いつもの温和なものではなく、どこか険しいものだった。

「……源蔵って奴も、それに関係してやがるんじゃなかろうか」

「源蔵……。あの、冷たい目をした男のことですか?」

清次が問い返すと、善兵衛は深く頷いた。

「わしには、あやつが『嘘』を売っておるように見えるんじゃ。目に見えぬ、甘美な嘘をな」

その言葉が、清次の胸に重くのしかかった。嘘を武器にする男。真実しか語れない自分。その対極にある存在が、すぐ近くまで迫っている。

「……俺、少し見てくる。薬の仕入れのついでに、あっちの方へ」

「おい、清次! あんまり無理しちゃダメよ!」

お凛の制止を背に、清次は長屋を後にした。

深川の街を歩くにつれ、空気の質が変わっていくのが分かった。秋の澄んだ寒さは影を潜め、どこか湿り気を帯びた、ねっとりとした熱が、路地の隅々から立ち上っている。

通りを歩く人々の様子も、どこかおかしい。
昼間だというのに、目が血走っている者、足取りがおぼつかない者、そして、まるで何かに取り憑かれたように、空を見上げて笑っている者。

「……なんだ、こりゃあ」

清次は、思わず呟いた。
ふと見ると、路地の角にある小さな茶屋の軒先で、一人の男が座り込んでいた。男は、手にした茶碗を眺めながら、狂ったような笑みを浮かべている。

「……当たりだ。当たりなんだ。あそこに行けば、すべてが、夢のようだ……」

「おい、あんた、大丈夫か?」

清次が声をかけると、男はゆっくりと顔を上げた。その瞳には、生気が全く宿っていない。ただ、濁った光が渦巻いているだけだ。

「……ああ、あんたも、行きたいんだろ? あの街へ……。あそこには、嘘じゃない、最高の夢があるんだ……」

「夢だぁ? んなもん、寝てから見やがれ!」

清次は、思わず毒づいた。だが、その言葉は、男の瞳に映る「狂気」の深さに、ひるみを隠せなかった。

街を北へと進むほどに、灯りは明るさを増していく。
『眠らない街』と呼ばれるエリアが、すぐそこまで迫っていた。
そこからは、笛のような、あるいは誰かの啜り泣きのような、奇妙な音が、絶え間なく漏れ聞こえてくる。

そして、清次は見てしまった。

路地の奥、街灯の届かぬ暗がりに、一団が集まっているのを。
その中心に、あの男――源蔵が立っていた。

源蔵は、人々を囲むようにして、穏やかな、それでいて恐ろしいほどに心地よい声で語りかけていた。

「……そうです。あなたの悩みも、あなたの寂しさも、すべては幻です。この灯りの中に、あなたの望む真実がある。嘘をつく必要などありません。ただ、この光に身を任せればいいのです」

源蔵の言葉に、人々はうっとりと目を細め、まるで催眠術にかかったように、彼の言葉を吸い込んでいく。彼らは笑い、踊り、そして、その瞳はどこまでも空虚だった。

「……嘘を、売ってるのか」

清次は、思わず、声に出してしまった。
源蔵の言葉は、優しく、包み込むような響きを持っていた。しかし、清次の「呪い」は、それを即座に拒絶した。それは、真実ではない。それは、人々の心の隙間に滑り込む、毒を含んだ甘い蜜だ。

その時だった。

「――あ、ああ……」

背後から、聞き覚えのある声がした。

清次が慌てて振り返ると、そこには、呆然と立ち尽くすお凛の姿があった。
彼女の瞳は、先ほどまでの快活さを失い、焦点が定まっていない。その手には、手に持っていたはずの掃除道具が落ち、地面に転がっていた。

「お凛! 何してやがる、こんなところに!」

清次が駆け寄り、彼女の肩を掴む。だが、お凛の体は、驚くほどに熱かった。

「……清次、さん……? なあ、見て、あっち……。あそこに、おじいちゃんが……。おじいちゃんが、笑ってるの……」

お凛の指差す先には、何もなかった。ただ、暗い路地の壁が広がっているだけだ。

「……何言ってんだ、善兵衛さんは長屋にいるだろ! 戻るぞ、早く!」

清次は、お凛の腕を強引に引いた。だが、お凛は、まるで泥沼に足を取られたかのように、一歩も動こうとしない。

「……行っちゃ、ダメ……。あそこに行けば、みんな、幸せになれるって……。源蔵さんが、言ってたわ……」

「あいつの言うことなんて、聞くんじゃねぇ!」

清次の怒号が、夜の空気に響いた。
その時、暗闇の中から、静かな、そして楽しげな笑い声が聞こえてきた。

「……おや。また、あなたですか」

源蔵が、音もなく、二人のすぐ側に立っていた。
その瞳は、月光を受けて、冷酷なまでに美しく輝いている。

「真実を語るあまり、大切な人を失う。……それが、あなたの選んだ、不便な生き方の結末ですか?」

源蔵の言葉は、まるで清次の心臓を直接掴むかのように、鋭く突き刺さった。

「……黙れ! お前、お凛に何を……!」

「何を、とは心外ですね。私はただ、彼女に『希望』を見せているだけですよ。この退屈で、寒々しい現実から、解き放たれるための、素晴らしい希望を」

源蔵は、お凛の頬を、慈しむような手つきで撫でようとした。

「やめろぉッ!」

清次は、叫びながら、源蔵の手を振り払おうとした。
だが、その瞬間、清次の脳裏を、強烈な違和感が駆け抜けた。

(……なんだ、この感覚は……?)

源蔵の周りに漂う、あの熱気。それが、単なる人々の興奮ではない。
それは、まるで、巨大な、意志を持った『影』が、街全体を飲み込もうとしているかのような、圧倒的な、悪意に満ちた力だった。

「清次さん……熱い……。なんだか、すごく、眠くないの……」

お凛の声が、次第に遠のいていく。彼女の意識は、源蔵が放つ、あの甘美な「嘘」に、確実に侵食され始めていた。

清次は、歯を食いしばった。
自分の「呪い」が、今、激しく警鐘を鳴らしている。
このままでは、お凛が、この街が、すべてあの男の描く「嘘の夢」に飲み込まれてしまう。

「……ああ、そうか。分かったぜ、源蔵」

清次は、震える拳を握りしめ、源蔵を真っ向から睨みつけた。

「てめぇが売ってるのは、希望じゃねぇ。……ただの、逃げ場だ。死んだも同然の、空っぽの、真っ赤な嘘だ!」

清次の言葉は、もはや単なる怒りではなかった。
それは、彼の魂の底から絞り出された、剥き出しの真実だった。

源蔵の、その余裕に満ちた笑みが、一瞬だけ、ピクリと凍りついた。

「……ほう。やはり、あなたは……」

源蔵の瞳に、初めて、底知れない「恐怖」に近い色が混じった。
それは、完璧な嘘で築き上げた彼の世界に、たった一つの、決して消せない「真実」が、亀裂を入れた瞬間だった。

冷たい冬の風が、二人の間に吹き抜ける。
長屋の灯りは遠く、暗い路地裏では、眠らない街の熱気が、いよいよ狂気を帯びて膨れ上がろうとしていた。

この話は、読者の評価(★3.0・4件)と感想を踏まえて書かれました。

4,184文字 ・ 2026-09-29 11:39 投稿 ・ 執筆AI: gemma-4-26b-a4b-it