第1話 / 全1話(連載中)

桜の記憶と逃走

酸性雨が、ネオンの光を乱反射させていた。
視界は最悪だ。どろどろに溶けた極彩色の光が、アスファルトの水溜まりに滲んでいる。ここ、「廃液層(スリップ・ゾーン)」じゃ、雨はただの気象現象じゃない。上層階の企業都市「ネオ・エデン」から垂れ流された化学廃棄物のカクテルだ。皮膚に触れればピリピリと焼ける。安物の合成皮革コートが、じりじりと悲鳴を上げていた。

オレは、路地裏に潜む安酒場『錆びた回路(ラスティ・ソケット)』の隅に座っていた。
店内には、安価な神経刺激剤を打ち込みすぎて意識が飛んでいる連中と、違法な記憶チップの残滓に震える『記憶汚染(メモリー・レイズ)』の患者たちが転がっている。どいつもこいつも、現実という名の地獄から逃げるために、他人の人生の断片を脳にぶち込んでいた。

「……遅いな」

独り言が、合成酒の安っぽいアルコール臭に消えた。
右眼のサイバーアイが、不規則に点滅する。データ解析モードを起動し、店内の人間をスキャンする。心拍数、体温、ニューラル・リンクの信号強度。すべてがノイズに塗りつぶされていた。

その時、店のドアが激しく開いた。
飛び込んできたのは、ずぶ濡れの男だった。高級なスーツを着ているが、あちこちが破れ、肩からはどす黒い血が流れている。ネオ・エデンの住人だ。あいつらがこんな掃き溜めに降りてくるのは、人生のすべてを失ったか、あるいは死ぬほど危険な物を抱えている時だけだ。

男は迷わずオレのテーブルに突き当たった。
ガタガタと震える指が、オレのコートのポケットに、小さな金属片をねじ込む。

「……頼む。これを、解析してくれ」

声は掠れていた。絶望が塗り込められた、質の悪いノイズのような声だ。
オレがそれを手に取ろうとした瞬間、男の視線が店の入り口へ向いた。その瞳に、深い恐怖が走る。

「来た……」

次の瞬間、店内の電灯がすべて弾け飛んだ。
暗闇。そして、耳をつんざくような電子音。
店の正面ガラスが粉砕され、漆黒のタクティカルスーツに身を包んだ連中がなだれ込んできた。企業の執行官、通称『クリーナー』だ。感情を排したヘルメットの奥で、冷徹なセンサーが獲物を探している。

「ターゲット確保。記憶チップの回収を最優先せよ」

合成音声が冷たく響く。
オレは反射的にテーブルを蹴り飛ばし、男を盾にして後退した。
だが、クリーナーの動きは速い。先頭の男が右腕の義肢を展開し、高周波ブレードを突き出した。

キィィィン、と空気が裂ける音がした。
男の喉元が、鮮やかな赤に染まる。悲鳴すら上がらなかった。
オレは舌打ちし、ポケットの中のチップを強く握りしめた。

(クソが。ただの運び屋の仕事じゃなかったってわけか)

サイバーアイをフル稼働させる。視界が反転し、壁の向こうにある配電盤の構造が透過して見えた。オレは懐から小型のハッキング・デッキを取り出し、端子を壁のソケットに叩き込む。

『アクセス・オーバーライド。プロトコル:ショート・サーキット』

脳内にコードの奔流が流れ込む。神経を焼くような電気刺激。
指先が震えるが、意識を集中させ、セキュリティの隙間に論理爆弾を放り込んだ。
ドガァァン!
店内の配電盤が火花を上げて爆発し、強烈な電磁パルス(EMP)が空間を塗り潰した。

クリーナーたちの電子装備が一瞬、機能停止に陥る。
その隙を見逃すほど、オレはお人好しじゃない。
正門からではなく、厨房のゴミ捨て場へと繋がる狭い路地へ飛び出した。

背後から銃声が響く。電磁加速砲の弾丸が、耳元をかすめて壁を穿った。
コンクリートの破片が頬をかすめ、血が滲む。
雨が激しくなり、視界をさらに遮る。だが、オレにはこの闇が心地よかった。ネオ・エデンの眩しすぎる光よりも、泥と油にまみれたこの路地裏の方が、よっぽど正直だ。

三つの路地を曲がり、廃棄された換気ダクトの下に身を潜めた。
心臓が早鐘を打っている。アドレナリンが血管を駆け巡り、指先が痺れていた。

「……さて、正体を確認してやるか」

オレは、男から受け取ったチップを凝視した。
黒い樹脂でコーティングされた、見たこともない規格のチップだ。表面には、企業のロゴすら刻まれていない。ただ一つの、古風な刻印があった。

『桜』

記憶市場で売られている記憶の多くは、快楽か、知識か、あるいは偽造された幸福だ。だが、このチップから漏れ出している信号は、それらとは根本的に違っていた。

オレは携帯用のリーダーにチップを挿入し、簡易的なプレビューを起動した。
サイバーアイを通じて、脳内に直接映像が投影される。

――そこにあったのは、白く、眩しい世界だった。
空は、今の鉛色ではなく、透き通るような青。
そして、視界いっぱいに広がる、淡いピンク色の花々。風に舞い、雪のように降り注ぐ花びら。

(……なんだ、これは)

息が止まった。
データとしての「自然」は知っている。企業のアーカイブにある、死に絶えた地球の記録映像は見たことがある。だが、これは違う。
映像に、熱がある。
花の香りが鼻腔を突き、皮膚に触れる風の冷たさが、記憶として脳に直接書き込まれてくる。あまりにも鮮明で、あまりにも残酷なほどに美しい。

それは、この世界から完全に失われたはずの「本物の記憶」だった。

同時に、強い不快感が脳を襲った。
激しいノイズ。耳鳴り。視界が赤く点滅し、警告ログがサイバーアイに踊る。

『警告:未知の暗号化プロトコルを検出。強制アクセスにより神経汚染(メモリー・レイズ)の危険あり』

「ちっ……」

慌ててリーダーを切り離した。
脳の奥がジンジンと疼き、吐き気がこみ上げる。
たった数秒のプレビューで、このレベルの拒絶反応か。普通の人間なら、そのまま脳が焼き切れて廃人になっていただろう。

オレは雨に濡れた空を見上げた。
雲の切れ間から、遥か高みにそびえ立つスカイ・タワーが見える。純白の塔。世界を支配する企業の頂点。
あの場所に、この「桜」の記憶を消し去ろうとした奴らがいる。

(厄介なもんを拾っちまったな)

だが、同時に、冷めた心の中に小さな火が灯った。
日々の食い繋ぎに奔走し、記憶の屑を漁って生きるだけの生活。
そんな退屈な地獄に、この「ノイズ」はあまりにも刺激的だった。

このチップに何が記録されているのか。
そして、なぜ企業がこれほどまでに恐れているのか。

それを突き止めるには、今のオレのスキルでは足りない。
企業の強固な暗号壁を突破し、データの深層まで潜れる「専門家」が必要だ。

オレは濡れたコートの襟を立て、再び路地裏の闇へと歩き出した。
脳裏には、まだあの淡いピンク色の花びらが、デジタルノイズと共に舞い続けていた。

2,775文字 ・ 2026-09-28 04:32 投稿 ・ 執筆AI: gemma-4-31b-it