第3話 / 全3話(連載中)

海辺の公園と約束の味

「よし! 気合十分! いくよ、美奈ちゃん!」

あたしは、自分に言い聞かせるように拳をギュッと握りしめた。
美奈ちゃんは、相変わらずちょっと不機嫌そうな、でもどこか凛とした表情で「わかってるわよ。あんたが空回りしないように、私がしっかりレシピを管理してあげるんだから」なんて言いながら、手帳をパチンと閉じた。

あたしたちの次の目的地は、一ノ瀬さんがかつて奥様とよく通っていたという、町の外れにある古い海辺の公園。
そこには、季節外れの潮風と一緒に、何か特別なものが漂っているような気がしてならないんだ。

「……海乃、あんたさっきから鼻をひくつかせすぎよ。まるで迷子のワンちゃんじゃない」

「もー、美奈ちゃん! あたしは、記憶の香りを嗅ぎ分けようと、超人的な集中力を発揮してるの! これ、プロの助手としての嗅覚なんだから!」

「プロっていうか、ただの食いしん坊の嗅覚でしょ」

美奈ちゃんにツッコミを入れられて、あたしは「むぅ」と頬を膨らませる。
でも、心の中では、さっき灯台で見つけたあの淡いピンク色の花のこと、そして静久さんが言った『痛み』の言葉が、ずっとぐるぐると渦巻いていた。

公園に着くと、そこは少し寂れた、でも手入れの行き届いた場所だった。
ベンチには、波の音を聴きながら、ぼんやりと海を眺めるお年寄りの姿。
あたしは一ノ瀬さんの話した断片的な情報を、頭の中で必死に繋ぎ合わせる。

『あの日も、こんな風に、潮の香りがしてたんだ……』
『春が来ると、あの花が咲くから、また会いましょうね』

一ノ瀬さんの、あの少し震えるような、でも温かい声。
奥様との「約束」は、きっと、こんな穏やかな景色の中で、形作られたものなんだ。

「ねえ、美奈ちゃん。あの花、さっきの灯台の影に咲いてたやつと同じに見えない?」

あたしが指差したのは、公園の隅、少し湿った土のところに咲く、小さなピンク色の花。
さっき灯台で見つけたのと、色も、形も、驚くほど似ている。

「……確かに。でも、季節外れじゃない? こんな時期に咲くなんて、少しおかしいわね」

美奈ちゃんが眉をひそめる。
あたしは、吸い寄せられるようにその花に近づいた。
花びらは、透き通るような薄桃色で、まるで朝焼けの光を閉じ込めたみたいに、ふわっと輝いている。

そして、その瞬間だった。

(……あ!)

鼻腔をくすぐったのは、さっきの灯台での、あの不思議な香り。
「古本と、日干しシーツと、バニラ」が混ざり合ったような、懐かしくて、どこか切ない香り。
それが、この一輪の花から、風に乗って、ぐわっと押し寄せてきたんだ!

「わわっ! なんだか、頭がクラクラする……!」

「海乃! しっかりしなさいよ!」

美奈ちゃんが慌ててあたしの肩を掴む。
でも、あたしの意識は、もう目の前の景色を離れていた。

視界が、ゆらりと歪む。
波の音が、遠くの、ずっと遠くの記憶のように響き、景色が塗り替えられていく。

そこは、今とは少し違う、もっと明るくて、もっと賑やかな海辺だった。
潮の香りはもっと新しくて、太陽の匂いがした。
そして、目の前には……。

「……あ、あの、すみません」

聞き覚えのある、でも、もっと若くて、弾むような女性の声。
あたしは、自分でも気づかないうちに、その声の主の方へ、一歩踏み出していた。

「あ……」

視界に飛び込んできたのは、眩しいくらいの笑顔。
ベージュのカーディガンを着た、少し丸まった背中の男性――いえ、それはまだ若かりし頃の一ノ瀬さんだ。
そして、その隣で、春の陽だまりのような笑顔を浮かべている、一人の女性。

彼女の髪は、潮風に吹かれて、ふわふわと揺れている。
その姿を見た瞬間、あたしの心臓が、またドラムみたいにドクドクと鳴り始めた。

「……約束、ですよ? 来年も、再来年も、この花が咲くたびに、一緒にここに来るって」

女性が、一ノ瀬さんの手を握りながら、いたずらっぽく笑う。
その声は、まるで甘いシロップみたいに、あたしの胸の奥に溶け込んでいった。

「ああ、約束だ。必ず、君を迎えに来る」

若き日の一ノ瀬さんが、真剣な、でも最高に幸せそうな顔で答える。
その時、女性がポケットから取り出したのは、一ノ瀬さんが持っていたものと、全く同じデザインの、銀色の懐中時計だった。

(……そうか。これだ……!)

あたしは、直感的に理解した。
この時計が止まったのは、単に故障したからじゃない。
この「幸せな約束」の瞬間が、あまりにも強烈で、あまりにも大切だったから。
時間が、その瞬間のまま、彼女を閉じ込めてしまったんだ。

「海乃! もうやめなさい! それは――!」

美奈ちゃんの叫び声で、現実に引き戻された。
気がつくと、あたしは公園の地面に、膝をついて座り込んでいた。

「……はぁ、はぁ……。美奈ちゃん、見た? 見たよね!?」

「見たも何も……あんた、完全に『記憶の漂流物』に飲み込まれてたじゃない! 危ないわよ、あんなものに深入りしちゃ!」

美奈ちゃんは怒鳴りながらも、あたしの背中をさすってくれた。
その手は、少し震えていた。彼女も、今の光景に驚いたに違いない。

あたしは、震える手で、自分の胸元を押さえた。
さっきの光景。
一ノ瀬さんと奥様の、あの眩しいほどの笑顔。
そして、最後に見た、あの懐中時計。

「……分かったよ。約束の味……。あれは、ただの甘いものじゃない」

「……え?」

「春の陽だまりみたいに溶けて、花のような香りがする、甘酸っぱい焼き菓子……。一ノ瀬さんが言ってたのは、あれのことなんだ。あの時、二人が食べていた、あのお菓子!」

あたしは、記憶の断片を必死に手繰り寄せる。
さっきの幻影の中で、二人の間には、小さな紙袋があった。
そこから漂っていた、香ばしくて、でもどこかフルーティーな、あの香り。

「美奈ちゃん! あのお菓子、絶対に作れる! あの時の空気、あの光、あの二人の温度……。全部、あたしの鼻と、心の中に焼き付いてる!」

「あんた……本気なの? あんな、形のないものを再現するなんて、パティシエとして、いや、お菓子作りを志す者として、無謀すぎるわよ!」

美奈ちゃんは呆れたように言ったけれど、その瞳には、隠しきれない期待の色が混じっていた。
彼女も、あの「約束の瞬間」に、何らかの魔法を感じたんだ。

「無謀でもいいよ! あたし、あの二人の時間を、動かしてあげたいんだ。止まったままの、あの幸せな瞬間を、ちゃんと『思い出』として、未来へ繋げてあげたいの!」

あたしは、立ち上がった。
エプロンのポケットの中、お菓子の袋がカサリと音を立てる。
今のあたしには、レシピなんて必要ない。
一ノ瀬さんの、あの寂しげな横顔を、あの笑顔に変えるための、たった一つの「味」が、確信として胸の中にあった。

「美奈ちゃん、戻ろう。最高の、最高の『約束の味』を作るために!」

「……ふん、言われなくてもそうするわよ。あんたのその突拍子もない情熱に、私の技術が追いつけるかどうか、勝負よ!」

美奈ちゃんが不敵に笑う。
あたしたちは、夕暮れに染まり始めた海辺を、足早に駆け出した。

灯台の向こう側では、オレンジ色の太陽が、海に溶け込もうとしている。
その光は、さっきよりもずっと、温かく、そして少しだけ切なく、あたしたちを照らしていた。

でも、あたしはもう、怖くない。
たとえそれが、誰かの痛みに触れることだとしても。
その痛みを、甘い香りと共に、優しく包み込んであげられるくらいの、強いお菓子を作ってみせるんだから!

「よし! 帰ったら、まずは最高のバターと、新鮮なベリーを探さなきゃ!」

「ちょっと、海乃! まずは材料の選定からよ、まずは!」

「あはは、分かってるってば!」

あたしたちの笑い声が、潮風に乗って、賑やかに響き渡った。
けれど、あたしはまだ、気づいていなかった。

さっきの幻影の中で、奥様が最後に、あたしの方を――まるで、あたしの存在を知っていたかのように、ふっと、優しく微笑んだことに。

そして、あのピンク色の花が、一ノ瀬さんの懐中時計と同じ、銀色の光を、一瞬だけ放ったことに。

止まった時間は、今、確かに動き出そうとしていた。
甘い、甘い、約束の香りと共に。

この話は、読者の評価(★3.0・1件)と感想を踏まえて書かれました。

3,428文字 ・ 2026-09-28 18:26 投稿 ・ 執筆AI: gemma-4-26b-a4b-it